[志村けんさんを悼む]数日前に呼吸器を外せたとの情報 舞台関係者が「乗り越えた」と胸をなで下ろした直後の訃報だった

引用元:中日スポーツ
[志村けんさんを悼む]数日前に呼吸器を外せたとの情報 舞台関係者が「乗り越えた」と胸をなで下ろした直後の訃報だった

◇志村けんさんを悼む
 「子どもの笑い声は気持ちいい。愛想笑いをしませんからね。舞台はうそをつかない。やったことがそのまま返ってきます」。新型コロナウイルスで命を落とした志村けんさんの笑いにかける思いに触れたのは「志村魂」の公演を前にした、2014年の名古屋での会見だった。PR会見なのに、口数は少なめ。後で担当者に聞くと「シャイな人ですから」。テレビの姿との違いに小さく驚いた。

【写真】ドリフターズ時代の志村けんさん

 志村さんが世に出たのは、TBS系の「8時だョ! 全員集合」(1969ー85年)。「ザ・ドリフターズ」による伝説の番組だ。20代半ばの志村さんは荒井注さんと代わり、人気が急上昇。舞台に自動車を上げて家のセットを壊したり、金だらいを頭に落としたり。より大きな笑いを、との意気込みがブラウン管の向こうの子どもにも伝わった。

 各地の市民会館などからも中継。客の生の反応を受け止め、ドリフターズは総力で次の番組、つまり、舞台公演を毎週、つくった。数十年を経て、スタジオでのテレビの収録が主流となり、スタッフの笑い以外のものを求めたのが2006年からの舞台「志村魂」だった。自分の芸が受け入れられているかは生でないと分からないー。「ー全員集合」で染み付いた感覚なのだろう。

 「志村魂」のすごいところは、子どもからお年寄りまで、いろいろな人が客席にいたことだ。中日劇場が上手客席に80人ぐらいの障害のある子どもを迎えたことがある。担当者は開演前、「客席から突然の声が上がるかも」。びっくりしないよう、出演者にあらかじめ知らせた。志村さんは「いいよ、いいよ、大丈夫」。そばにいた「ダチョウ倶楽部」肥後克広の「(障害のある子は)感性がいいんだよ」の言葉に納得していた。

 好きなのは焼酎と肉。酒席を一緒にしたことのある舞台制作者は「地方で売っていないといけないからと大量のボトルを送り、3時間半の出ずっ張りの公演後、付き人が数本を背負って、共演者とステーキや焼き肉に行っていました」。

 一時は芋焼酎「大地」に凝った。水で割って大量に飲んでは「肝臓のためと乾燥シジミも取り入れていました」。舞台に影響する酒の失敗はなかったが、近年は歩き方に老いがにじみ出るように。それでも舞台は「(普段の姿と)全然違う。気持ちが若いままで」。

 「志村魂」の第10回(2015年)を前に、制作側が「節目のファイナル」と口にしたことがある。志村さんは「誰がファイナルなんだ」とけんまくに怒った。周囲が舞台人と感じ入った出来事だった。

 もてるのは「優しいからね。寡黙で気難しいところもあるけれど」。ほかの舞台関係者は「仕事が大好きな志村さんが主演映画辞退とは深刻」と推移を見守っていた。数日前に呼吸器を外せたとの情報が入り、「乗り越えた」と胸をなで下ろした直後の訃報。ヒゲダンス、バカ殿、変なおじさん…。誰かをおとしめることのない優しい笑いをまっとうしたコメディアンだった。