ニッポンの音楽教育150年間のナゾ 「君が代」と「唱歌」と「明治頌」

引用元:夕刊フジ

 あけましておめでとうございます。正月からいろいろあって今年は大変そうですね…。とはいえ身を低くしてマイペースで更新していきたいと思いますのでよろしくお願いいたします。

 ボストン出身の音楽教師、ルーサー・ホワイティング・メーソンは、日本に来日する以前から、アメリカでは「初等音楽教育」に関する第一人者として随分と著名な存在だったそうです。安田寛氏は著書『唱歌と十字架』(音楽之友社)のなかで、開国したばかりの極東日本の学校教育の指導のために彼が来日したことについて、「メジャーリーグの現役四番バッターが日本でプレーしに来る」ような出来事である、という風に例えています。

 メーソンは日本で伊沢修二とともに、のちに現在まで、つまり、なんと150年!に渡って引き継がれてゆく、初めての「唱歌」の選定・制作をおこないました。明治大正昭和平成の四代にわたって、そしておそらく令和のこれからも、日本の音楽教育の基盤には彼(ら)が導入した「唱歌」が据えられている。メーソンの仕事は大成果を納めたという訳ですが、そんなメーソンは実は、「唱歌」教育の方向性が固まった段階で、かなり曖昧な形で、在日期間で数えるならば、わずか2年あまりで滞在を打ち切られ、つまり「馘首」になってアメリカへと帰国させられることになります。

 同時期に来日し、「君が代」の制作にも関わったフランツ・エッケルトの在日期間がほぼ20年に渡ることに比べると、メーソンが仕事に携わった期間は不自然なくらいに短い。しかもこの帰米は、彼自身が望んだものではなく、文部省からのほぼ一方的な通達によって行われたものだった模様です。

 一般的に考えれば、選定・制作後、それを普及させるための指導と、その定着までを確認するところまで、しっかりと仕事をお願いするのが普通だと思うのですが、メーソンの離職はあまりにも性急なもののように思える。ここには何か特別な理由があるのではないか--この疑問に立ち止まり、「メーソンが日本で行ったこと、行おうとしたこと」について、これまで知られていなかった資料の丹念な調査と発掘を通して、この謎を一編のミステリー仕立てで描いた著作が、安田寛氏の『唱歌と十字架』です。

 安田氏は、メーソンには、「キリスト教を日本に伝道する」という意志があったのではないか、と推察します。お雇い外国人という自身の立場を利用して、日本の公式の音楽教育の中に、キリスト教の「讃美歌」を「唱歌」というかたちで忍び込ませること。学校教育において、教会の讃美歌と同じメロディーを全国的に普及させることによって、宣教師たちの仕事をやりやすくさせること--。安田氏は以下のように書いています。

 <日本人に讃美歌という異文化を移植することに、今日からは考えられないような苦労をしていた宣教師。その時、日本の公立学校で始めて歌の授業を開始するために、メーソンが日本へやってきた。西洋の歌を教えるということでは、宣教師とまったく同じ仕事をするために(中略)。

 教会、ミッションスクールと音楽取調掛とは、隠された讃美歌によって秘かに繋がっていたのではないか。

 居留地というのは、幕府、そのあと明治政府が外国人、特に宣教師らを囲いこんで外に出さないように設けたものだ。そこを出入りする日本人は関所を設けて厳しくチェックされた。横浜に今に残る地名「関内」がこのことを今に伝えている。

 最初の教会、ミッションスクールはこういった居留地にあった。居留地に開設された伝道区にあった教会と本郷にあった文部省の音楽取調掛とは、地下で繋がっていたのではないか。音楽取調掛は讃美歌伝道の隠れステーションだったのではないか。

 地下道を通じて、居留地の讃美歌教育が公教育にも秘かにもち込まれたのではないか。その結果、居留地の特殊な実験に過ぎなかったものが、公立学校を通じて一挙に日本全国に広がっていくことになったのではないだろうか。日本の音楽教育の源は居留地の讃美歌教育に背後で繋がっている。これによって讃美歌は広く日本の感情教育のテキストになった。《むすんでひらいて》《ほたるの光》《庭の千草》の『小学唱歌集』が日本人の感情の中に広く、深く浸透していった真の原因は、それに含まれていた讃美歌だったのではないか。

 このありえないことが、ほんとうにあったなら、日本の歌の近代化は、これまでとまったく異なった風景をぼくらの前に展開してくれるはずだ。>(前掲書、p45,47~48)

 安田氏はこのようなテーマでもって、アメリカにおけるメーソンの仕事の軌跡、メーソンと伊沢修二ら留学生の接触のあらまし、彼を日本に呼ぶことになった経緯、そのころの日本の政治状況…などなどについて綿密な調査をおこないます。その結果、さて、実際に、メーソンには「公教育に讃美歌を忍ばせる」という意志はあったのか? そして、メーソンの突然の離職は、そのような「陰謀」と何らかの関係があったのか? --この本で語られている「結論」に関しては、まだ、この手に汗握らせる音楽ミステリーの力作を読んでいない人のために伏せておきましょう。

 この本が出版された一九九三年には、中村理平氏による大著『洋楽導入者の軌跡』(刀水書房)も上梓されており、このあたりから明治期の「音楽」にまつわる調査・研究は、魅力的な視座をあらたに獲得し、ぐんぐんと進んで行くことになります。

 ■大谷能生(おおたに よしお) 音楽と批評。ミュージシャンとしてジャズを中心に、さまざまなバンドやセッションで活動。著作としては『平成日本の音楽の教科書』、『ジャズと自由は手をとって(地獄に)行く』、『東京大学のアルバート・アイラー』(菊地成孔との共著)、『日本ジャズの誕生』(瀬川昌久との共著)、『身体と言葉』(山縣太一との共著)など多数。