「夢は捨てたと言わないで」…たけしの紅白での「浅草キッド」熱唱が人々の胸を打った理由

引用元:スポーツ報知
「夢は捨てたと言わないで」…たけしの紅白での「浅草キッド」熱唱が人々の胸を打った理由

 昨年の大みそか午後10時8分。昭和、平成、令和の3時代をトップランナーとして駆け抜けてきたお笑い界の超大物が初めて1人の歌手として、NHKホールのステージに立った。

 舞台は令和最初の「第70回NHK紅白歌合戦」。タレント・ビートたけし(72)は映画監督としての代名詞「キタノ・ブルー」に酷似した暗青色のセットの前に着段着に見えるラフなセーター姿で立つと、2度、ぺこりと頭を下げた。

 右手にマイクを握って歌ったのは1972年、明大工学部を中退(除籍)して飛び込んだ東京・浅草のフランス座での下積み時代を丁寧に曲にした自身作詞・作曲の「浅草キッド」(86年リリース)。時間にして4分間。アコースティックギターだけの伴奏を背に、たけしは最大の特徴である、かすれ気味の、でも、とても味のある声で切ないバラードを歌い上げた。

 「お前と会った仲見世の煮込みしかないくじら屋で―」

 「いつかうれる(売れる)と信じてた」

 「同じ背広を初めて買って」

 「夢は捨てたと言わないで 他に道なき2人なのに」

 描かれているのは、浅草時代の極貧生活と88年刊行の自伝的小説「浅草キッド」に芸名「マーキー」こと牧口正樹という名前で登場するフランス座の後輩男性との濃密な関係だ。

 お笑い界での成功を夢見て漫才コンビを組んだものの、マーキーは「天才・たけし」との圧倒的な力量差に打ちのめされ、精神を病む。ついには自殺未遂を図り、引退に追い込まれる。そんなマーキーが見舞いに行ったたけしに病室で言い放ったと言われるのが、「夢は捨てた」という一言なのだ。

 歌唱前に収録されたVTRでも「浅草キッド」について、「ツービートという漫才師が(世に)出るために何組の漫才師がダメになったかも分かるし、自分がある程度、売れた時に作った歌。同じ時期に同じような生活をして、一緒にお酒を飲んだり騒いでいたのに、何でコイツが落ち込んで自分が売れたということには罪悪感がある」と率直に語った、たけし。

 マーキーとの別離後、たけしはビートきよし(70)に誘われ、ツービートを結成。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」、「寝る前にちゃんと締めよう、親の首」などの毒ガス漫才で一気にブレークを果たす。

 しかし、お笑い界のトップに登り詰めていく過程では、マーキーのような“ボタンの掛け違い”でスターになり損なった仲間だけでなく、芸人だけでは食べていけず会社員になったが、83年、自宅アパートの火災で焼死してしまう師匠・深見千三郎さんら数々の悲劇的な存在があった。

 たけしの口にした「罪悪感」という言葉の裏には、そうした浅草時代の悲しい思い出の数々と自分が浮かび上がる過程で“踏み台”にして行った人々の存在が確かに横たわっている。少なくとも映画監督・北野武としてもベネチア映画祭グランプリに輝くなどの成功の過程を番記者として追いかけ続けてきた私は、たけしがそうした考え方をする人だと言うことが分かる。

 間違いなく、そうした「自分だけが売れた」という慚愧(ざんき=恥じること)の念を胸に歌っただろう、たけしの熱唱は現在のお笑い界のトップランナーたちのハートも直撃した。

 紅白の総合司会を務めた内村光良(55)は曲紹介の際、涙声で「俺もデビューの時、(相方の南原清隆と)2人で背広を買いに行って。そういう歌詞がいっぱいあって。やばいです。この歌は…」と涙声で話した。たけしの歌唱の際、カメラで表情を抜かれた審査員の「サンドウィッチマン」伊達みきお(45)は明らかに涙をぬぐっていた。

 そして、ネット上でも「歌手・たけし」を知らない世代が敏感に反応した。

 「なんて優しい歌声なんだ」

 「思ったより、ずっと、心にしみるいい声だった」

 「リズムが取れていない気がしたけど、力づくで感動させられた」

 「歌のうまさを超えた情感で泣かされた」

 若い世代からも漏れた熱い反応。81年から90年まで放送された伝説のラジオ番組・ニッポン放送の「たけしのオールナイトニッポン(ANN)」を毎回、カセットテープに録って聞き直していたほどの「たけし世代」ど真ん中の私は、紅白を見て初めて泣いた。

 80年代から90年代にかけ、20枚以上のシングル曲を歌ってきた、たけし。81年2月の実質的デビュー曲「俺は絶対テクニシャン」から84年の「抱いた腰がチャッチャッチャ」、85年の「哀しい気分でジョーーク」まで名曲が並ぶ。中でも「ANN」で何回もオンエアされていた「ハード・レインで愛はズブヌレ」や「たかをくくろうか」などは今聞いても誰もがシビれるバラードの名曲だと思う。

 そんな数々の持ち歌の中から、「浅草キッド」を選んで歌った大御所は「紅白」終了後のぶら下がり取材で激動の19年を振り返って、こう言った。「私はいかにも芸能人らしく、離婚もあり、なんでもあります。いかにも芸能人ですね。一番ひどい目に遭いました」―。

 そう、昨年、古今亭志ん生役でレギュラー出演したNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」やバラエティー番組では、しばしば、その滑舌の悪さが話題にされ、「たけし老いたり」などの見出しも躍った。

 4月には「オフィス北野」から独立し、新事務所「T.Nゴン」を設立。プライベートでも39年間連れ添った妻・幹子さん(68)と協議離婚。8年前に知り合った18歳年下の女性パートナー・Aさんと都内の自宅で同居し、マネジメントも全面的に任せている状態だ。

 そんな「なんでもあり」状態の超大物が堂々と、しんみりと歌い上げた4分間。確認できたのは、タレント・ビートたけしの内側に常にあるのが「自分だけが売れた」という罪悪感と、96年の監督映画「キッズ・リターン」で主人公たちに言わせた「俺たち、もう終わっちゃったのかな?」「バカヤロー、まだ始まっちゃいねーよ」に象徴される未達成感だと言うことだ。

 たけしは昨年10月、短編小説集「純・文学」(河出書房新社刊)を北野武名義で刊行した際、「芥川賞と直木賞、同時にくれなきゃ嫌だ」と発言して話題になった。

 そのコメントを笑うのは簡単だ。でも、誰がタレント・ビートたけしが映画監督・北野武としてベネチア映画祭グランプリに輝くと思っただろう。「夢は捨てたと言わないで」という歌詞にこそ、この人の真実があるし、取材者なら絶対に追い続ける価値がそこにある。たけしが持っているのは、誰もが持つべき「自分の可能性への自信」のようなものだと、私は思うから。(記者コラム・中村 健吾) 報知新聞社