【あの時:日本レコード大賞<3>】梓みちよ“赤ちゃん”に苦しみ一時封印

引用元:スポーツ報知
【あの時:日本レコード大賞<3>】梓みちよ“赤ちゃん”に苦しみ一時封印

◆梓みちよ(63年大賞)

 “大みそかはレコ大と紅白”がお茶の間の定番だった。1959年にスタートした日本歌謡界最大の音楽イベント「日本レコード大賞」が今年、令和に入って第1回目となる。12組の歌手や作家が当時を振り返る。(この連載は2018年12月にスポーツ報知掲載の復刻)
 ※「第61回日本レコード大賞」は12月30日午後5時半からTBS系で放送される。

 1963年、第5回の大賞は、梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」(作詩・永六輔、作曲・中村八大)だ。7月にNHK「夢であいましょう」で今月の歌コーナーで紹介され11月に発売されると、100万枚を超える空前のヒットを記録した。

 「レコ大って知らなかったから喜びと言ってもね…。あまり授賞式の記憶もないんですよ。ただ(受賞の)知らせを受けた時、私ね夜も深い時間に(渡辺プロの)晋社長にNHKに連れて行かれて『夢で―』のリハーサルにお邪魔して、司会の黒柳徹子さんらにお礼のごあいさつしたのは覚えています。『なんでこんな夜中に行かなきゃなんないんだろう』って思ってました」

 「こんにちは赤ちゃん」を歌う時はかなりの抵抗もあったというが…。

 「まだ10代で子供も産んだことないんですから。私、永さんと八大さんにお目にかかった時、言ったんです。『私、分からない。この歌、嫌だ。どうやって歌ったらいいですか』って。そしたら永さんが『女の人はみんな赤ちゃんを産んだりするでしょ。女性には母性があって胸に玉のような赤ちゃんを抱くようなイメージで歌えばいいのよ』って。そのひと言で歌えると思ったんですが『ここ(胸)に玉のような赤ちゃんがいる』と考えるとまた分からなくなっちゃって苦労しました」

 62年にボサノバ歌手でデビューしたが“赤ちゃん”のイメージに悩み、大賞曲を封印した時期もあった。

 「ボサノバも歌えなくなったし、正直言ってあの歌にはいいイメージは持っていなかった。それで『二人でお酒を』がまったく逆のイメージ(あぐらを組んで歌う場面で有名)が当たったんですが、祖母から『みちよちゃん、お願いだからあんなお行儀の悪い格好で歌わないで』って。『踊りの振りだから』と言っても祖母には分からなかったです(笑い)。もうこの時期は“赤ちゃん”を歌わなかった。『私は“こんにちは赤ちゃん”を歌うためだけに歌手になったんじゃない』ってぐらいに。小生意気でしょ」

 封印を解いた理由は。

 「80年代後半に『仕事をやりたくない』ってニューヨークと西海岸に半年ずつ逃げ出したことがあったんですね。現地で日本人の方と触れ合う機会があって。目の前にお年寄りのおばあさまたちがいらしていて、私の『こんにちは赤ちゃん』を聴いてくださってボロボロ涙を流しているんですよ。それではっと気がついたというか『何てことをしてきたんだろう、私って。目の前でこんなに涙を流して聴いてくださる方がいるのに、歌いたくないとか言っちゃった』ってね。何か作品にずっと悪いことをしたなと後悔しました」(構成 特別編集委員・国分敦)

 ◆梓みちよ(あずさ・みちよ)本名・林美千代。1943年6月4日、福岡県出身。76歳。宝塚音楽学校在学中に渡辺プロダクションのオーディションに合格。62年「ボッサ・ノバでキッス」で歌手デビュー。63年「こんにちは赤ちゃん」が大ヒット。第5回日本レコード大賞を受賞。74年「二人でお酒を」、76年の「メランコリー」などのヒットがある。

◆天皇皇后両陛下に歌披露 祖母が号泣
 梓は翌年、学習院大学初等科の同窓会で昭和天皇、皇后両陛下の前で「こんにちは―」を披露した。「祖母に報告したら電話の向こうでガンガン泣いているんです。『みちよちゃん、良かったね』と言葉も聞こえないぐらいに。当日、覚えているのは椿山荘のお庭でハトにお豆をやった時のことです。豆入りの升をいただきまして、どうしていいか分からずにいると皇后陛下が『お豆ちょうだい』と。『はい』とお渡ししたんですが、それが良かったものか。後から怖くなってきました」

報知新聞社