渥美清さんの一言でドラマスタートも…寅さんの衝撃ラストに抗議殺到、映画化決定 帰ってきた「みんなの寅さん」

引用元:夕刊フジ
渥美清さんの一言でドラマスタートも…寅さんの衝撃ラストに抗議殺到、映画化決定 帰ってきた「みんなの寅さん」

 【帰ってきた「みんなの寅さん」】

 令和になって初めての正月に、われらが寅さんが帰ってくる。山田洋次原作・監督『男はつらいよ お帰り 寅さん』が27日に公開されるのだ。なぜ寅さんは今も愛されているのか。その秘密を娯楽映画研究家の佐藤利明氏が解き明かす。

 1995年の第48作『寅次郎紅の花』が最終作と考えていたファンにはまさかのサプライズ。しかも第1作『男はつらいよ』から50年、97年の特別篇も入れるとちょうど50作目です。

 「私、生まれも育ちも葛飾柴又です」。渥美清さんの歯切れのいい仁義で始まる「男はつらいよ」は昭和44(69)年8月に第1作が公開されました。時はベトナム戦争の時代。若者は学生運動に参加し、街角にはヒッピーがあふれていました。映画界では高倉健さんの「やくざ映画」にサラリーマンや学生が喝采を送っていました。そんな年に、寅さんは時代の権威や常識への「カウンターカルチャー」として登場したのです。

 その前年、渥美さんの「俺、テキ屋をやりたいんだ」の一言でフジテレビのドラマ「男はつらいよ」がスタート。世間からドロップアウトして、トランク一つで旅から旅の気ままな暮らし。寅さんは「やくざ映画の主人公」とはまた違う意味のヒーローとなったのです。テキ屋が主人公のドラマは異色でした。脚本、監修を手掛けた山田洋次監督は「この時代に寅さんのような自由奔放な生き方は許されない」と最終回を奄美群島・徳之島で寅さんが「ハブに咬まれて死んでしまう」衝撃のラストにしてしまったのです。当時のアメリカン・ニューシネマを考えれば、納得もできますが、テレビ局には抗議の電話が殺到しました。

 山田監督は、車寅次郎という人物が「みんなの寅さん」になっていたことに気づき、映画化を企画。上層部の猛反対を受けながらも、松竹の城戸四郎社長の「それほどやりたいのなら」の一言で寅さんがスクリーンに帰ってきたのです。

 第1作の渥美さんは、みなぎるパワーと、きつくゼンマイを巻いた玩具のようなキビキビした動きで観るものを圧倒します。16歳で父親と大げんかして家出して以来、20年。寅さんが宵庚申(よいこうしん=縁日)でにぎわう柴又帝釈天に戻って来るところから、半世紀にも及ぶ映画『男はつらいよ』シリーズが始まったのです。

 ■佐藤利明(さとう・としあき) 娯楽映画研究家。クレイジーキャッツ、石原裕次郎、「男はつらいよ」などの魅力を新聞やテレビ・ラジオ、著作を通して紹介し続ける「エンタテインメントの伝道師」。12月10日には「みんなの寅さん from1969」(アルファベータブックス)&「寅さんのことば 生きてる? そら結構だ」(幻冬舎)の刊行記念「佐藤利明×佐藤蛾次郎トーク&サイン会」を東京堂書店・神田神保町店で開催(参加費1000円、要予約03・3291・5181)。

 ■日本映画専門チャンネル 12~2月「男はつらいよ」セレクション放送