梅宮さん生前語った「キムタク」本紙インタビューで熱弁「スター論」と「ダンディズム」

引用元:東スポWeb
梅宮さん生前語った「キムタク」本紙インタビューで熱弁「スター論」と「ダンディズム」

「キムタクはいいぞっ!って思ったけど…」。慢性腎不全のため12日午前7時40分に81歳で死去した俳優の梅宮辰夫さんは、本紙のインタビューで独自の「スター論」を展開していた。自らを“昭和の映画俳優”と呼んでいた梅宮さん。男の色気=ダンディズムが大切だと説くなかで、興味深かったのは元SMAPの木村拓哉(47)について語ったところだ。昭和、平成、令和を生き抜いたスター辰アニキの目に、キムタクはどう映っていたのだろうか――。

 梅宮さんは長い闘病生活の中でも男気を忘れることがなかった。

 2016年2月28日には、「安藤組」組長から俳優になった安藤昇さんのお別れ会に発起人の一人として参加。バカラのグラスにつがれたビールを片手に献酒すると、「また一人、昭和のスターが逝ってしまった。寂しいです。どうか、そちらの世界でお元気で」と別れの言葉を贈った。移動時に歩行器を押して歩く姿から体調不安説もささやかれたが、あれから3年以上も生き抜いた。

 本紙は同年4月、「昭和名優のダンディズム 本人直撃編」でインタビュー取材を依頼したが、マネジャーには「あまり体調が良くないので厳しいと思う」と難色を示された。だが、どうしても話を聞きたかった記者は「仁義なき戦い」や「県警対組織暴力」を見て感じたことをつづった手紙を手渡してもらうことにした。たまたま梅宮さんと中学校が同じで後輩であることを記し、男くささがなくなりつつある現代社会をどう受け止めているのかを尋ねた内容だった。

 すると数日後、マネジャーから連絡があり、都内で行われたテレビ番組の収録後に取材を受けてくれることになった。杉作J太郎氏と現場に向かい、名刺を差し出してあいさつすると、梅宮さんは「君か、手紙を書いたのは? いい手紙だった」と言い、ポンと肩を叩いてくれた。

 ダンディズムについて「僕はね、やっぱり色気がないとダメだと思う。言い換えるなら、粋な感じがダンディーにつながると思うんですね」と語り「ダンディーな後輩っていったら千葉真一くらいまでなんですよ。その後は誰もいない!」と言い切った。

 梅宮さんがインタビュー中、何度も口にしたのが「僕は“昭和の映画俳優”だから」というフレーズだった。

「不良番長」シリーズなどアニキの印象が強いことについて、「(映画の時代は)お茶の間的じゃなく、世間に背を向けた人間のほうがウケたわけだ。かっこよかったというか、なんか憧れがあったのかもしれないね」と分析し、「おじさんの中には私を映画で見た人がいても、女性はまず見てませんよ。全部ヒモの話ですから。おばさんはみんなテレビ(に出演してから)ですよ」と豪快に笑った。

 一方で“平成のテレビ”については手厳しく、「テレビは庶民的に、お茶の間的に作品を作り上げるし、俳優にもそういう好感度を求める」から昭和のようなスターが消えたと主張した。

「キムタクなんか正統派の顔しているし最初はね、『こいつはいいぞっ!』って思ったんです。だけど今みたいに、まぁ毎日毎日のべつまくなしにテレビに出てる連中というのは、芸能人というよりもテレビの放送要員ですね。100円でもいいからお金を出してみたいって人がいない」

 キムタクを辰兄さんの眼鏡にかなうスターにできなかったのは、テレビのせいだ、とでも言いたげだった。

 大好きな釣りの話も存分に語ってくれた。初めて釣ったのは出身地・満州のハルピンの川でハヤとライギョ。その後、父親の転勤に伴い、茨城県水戸市の那珂川でナマズ、ウナギ、ワカサギ。高校生になると東京湾でスズキ釣りに夢中になったが、当時は油臭くて食べられなかったそうだ。

 また、「いろんな釣り友達ができて、ハワイで身の丈より大きいGT(ジャイアントトレバリー、アジ類の最大種)を釣った写真を見せられて、『行きてぇなー』と思って、(クラウディア夫人との)結婚式をハワイで挙げました」と明かし、いたずらっぽく笑った。

 我らが不良番長、そして男気あふれる大先輩のご冥福をお祈りします。

☆うめみや・たつお 1938年3月11日、旧満州(現中国東北部)生まれ。日本大学在学中の58年に東映ニューフェイス5期生に合格。翌年に映画「少年探偵団 敵は原子潜航艇」の主演で俳優デビューした。68年から映画「不良番長シリーズ」の主役として人気となり、73年に映画「仁義なき戦い」で不動の地位を確立。その後もドラマ「前略おふくろ様」(日本テレビ系)や「スクール☆ウォーズ」(TBS系)、「特命係長 只野仁」(テレビ朝日系)などに出演。親分肌の役柄で人気を博した。