氷川きよし、何と言われても自分出していきたい…祝20周年、構想3年の新曲「母」発売

引用元:スポーツ報知
氷川きよし、何と言われても自分出していきたい…祝20周年、構想3年の新曲「母」発売

 歌手の氷川きよし(42)のインタビュー第2弾。今回は日本レコード大賞で最優秀新人賞を受賞し、2006年に大賞を獲得した当時の様子や14年に喉のポリープ除去の手術に踏み切った時に「歌手をやめたい」と悩んでいたことなど、当時の心境をしみじみと語った。また、ビジュアル系パフォーマンスで世間を驚かせたが「周りの目を気にせず自分を出していきたい」。21年目の再出発に目を輝かせた。(ペン・国分 敦、カメラ・小泉 洋樹)

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 2000年の賞レースでは新人賞を総なめ。レコ大でも最優秀新人賞を受賞したが自信はなかったそうだ。

 「レコ大のステージに立たせてもらった時には不思議な感じで、なんかフワーっとしていて自分がそこにいるというよりもただ歌わせられている感覚でした。はっきりした記憶がないですよ。喜びの次元を超えた感じというか。それまでいろんな新人賞をいただいてましたが、最優秀は自分でなく(3人組女性ユニットの)アースだと思っていました。他にチェウニさんもいましたね。自分が取るという意欲も売れている意識もなく、自分の周りになんか人がいっぱいきているなと思っていました(笑い)」

 ―デビューしてすぐに売れたが。

 「デビュー後は下積みの苦労をあまり感じませんでした。(長良じゅん)会長に守られていましたし『デビューしたい。CDを出したい』というのが夢でしたから。若かったのもありますが、当時は賞をいただいてのその価値が分かっていなかったです。今になって大勢の方が動いて多くのファンが支えてくれた結果が、賞につながったのが分かります。でも、賞を取ると自信というか、周囲に認めてもらえたのかなという気持ちはありました。歌手として階段を一歩登らせてもらって、最優秀新人賞に見合う恥ずかしくない歌手にならなくちゃいけないと思いました」

 新人で紅白歌合戦にも出場し、03年目には「白雲の城」でレコ大最優秀歌唱賞を受賞。06年に「一剣」で大賞を手にした時は周囲の期待を痛いほど感じていた。

 「いける感じはしていました。というよりも『取るんだ』という意気込みがね…。長良会長始め事務所の人の『頑張れ』という圧がすごくて、自分は『はい』と応えるだけでした。発表の時に自分の名前を呼ばれて涙を流しましたが心から泣けていません。『自分じゃなくみんながやってくれただけ。お前が泣くんじゃない』って冷めた目で自分を見ていて、マネジャーにも『あなただけの力で取ったんじゃないのよ』といわれました。『一剣』は真心の入った作品ですが(大賞は)周りがやってくれたものです。ただ、この大賞をいただいて今度は誰もが『いい』と納得する作品を歌いたいと思いました。『自分でしか歌えない曲に出会えたい。真実に勝る芸術ない』と心底思っていて、感動して聴いてもらえる作品と出逢いたいという欲が湧いてきました。そんな作品で(大賞を)獲りたいと思っていて、今もその戦いは続いています」

 歌謡界を牽引し続けていた貴公子にとって最大のピンチが訪れたのはデビューから13年ほど経ったころ。喉に異変を感じた。

 「声が出ないんですよ。高音が。ガサ声になっちゃって。14年がピークでした。声帯にポリープができちゃって…。『もう無理だよ』いってもコンサート日程は決まっている。待っているファンがいるから事務所は『やりなさい』という。無理してステージには立ちますが喉が悪いし歌えない。だから精神状態も悪くなる。『歌えないのに何で歌わすの』とか思っていて、どこに気持ちを置けばいいのか分からない状態で1年で公演80か所やりました。とにかく高音張れないし、声の抜けも悪くてコブシも引っかかる。自分の歌が歌えないんですよ」

 ―状態は最悪だった。

 「はい。『自分もうやめた方がいいかな』と思っている中で『とにかく(公演を)やって』の繰り返し。心が追いつかない。戦いでしたね、孤独と辛さの…。デビューから喉を使いすぎていたんですかね。でも歌い続けてCDをみなさんに買っていただくことが歌手には重要なんです。昔は黙っていてもCDは売れたけど、今は自分が動かないと枚数が伸びない状況ですから。それは分かっていても応えていくのがしんどかったし、それ以上に高音が出ないのがこんな辛いんだなって痛感しました。そこがストレスになって体調も崩して、14年の武道館公演後に手術することになりました」

 喉にメスを入れるのは歌手生命を脅かすことにもなるが、とにかく自分の声を取り戻すことを願っていたそうだ。

 「手術は正直、怖かったです。声が戻るかどうか不安でした。周囲もそれを心配していました。(神林義弘)社長はそこを心配して手術に慎重だったんでしょうね。でも本当に使い物になりませんでしたから、声が。『ターン』といくところが『ヴァー』ってなっちゃいましたから。球投げても向こうに届く前にヘロヘロになちゃう感じ。睡眠をとっても疲れをとっても、どう頑張ってもダメ。高音が伸びない。思うように歌えず『いい声がでないとつまらない』となって気持ちも落ちちゃう。あの状態だったら『限界突破』とか歌えませんよ。当時の声では依頼さえ来ないと思います」

 術後は良好だった。本来の喉の調子を取り戻すにつれ、歌手としての喜びを改めた感じたそうだ。

 「手術して声は戻ったけど逆に出すぎてキンキン声になっちゃっいました。手術してから一番最初に出たNHKさんの歌番組で尾崎豊さんの『I LOVE YOU』を歌った時にキー一音ぐらい高く歌っちゃっていましたよ(笑い)。それも喉を使ううち段々慣れてストレスもなくなりました。手術を通して自分がやりたいのは低い『ウォー』という声じゃなくハイトーンなんだと実感できました。ロングトーンでカーンと抜けて歌っている方が気持ちいいです。喉が治って思った通りに声が出る。コンサート終えた時の達成感って改めて最高の幸せなんだなって感じました。やっぱり一番はお客さんが喜んでくれることで、喜びや楽しみを共感できることってすばらしい。一人でおいしいモノを食べても全然喜べないし、人と楽しめる共有できるのは宇宙上で最高の幸せなんだなって思います」

 ―手術の時は最悪のことも考えた。

 「何度も歌手をやめたいと思う事もありましたが、何があったって続けていく。自分の中の苦しみがあっても。やめるというよりも続けて乗り越えていくのが正しい道というのを悟りました。一瞬、人がバーっと離れても一人でも頑張っていく気持ちじゃなとダメということを勉強させていただきました。『やめた方がいい』とか『やめなきゃ迷惑かける』と思ったけど、せっかくみんな今の氷川きよしを作ってくれたから、やめるのは失礼かなと思います」

 ―最近の体調は。

 「40歳過ぎて年を感じています(笑い)。11時くらいになると眠くなってきちゃってね。前までは3時ぐらいまでケロッとしていましたが、今は本当に眠くてダメですよ。疲れやすくて飲みにも行けない。もう無理。それに人に会いたくなくなってきていて。外に出ると気遣っちゃうじゃないですか。嫌な人と思われたくないから笑って『あっ、そうですね』っていう具合に“いい人キャンペーン”みたいになっちゃう。どうしても気疲れしちゃうでしょ」

 子供からおばあちゃん、おじいちゃんまで知らない人がいない。認知度No.1の芸能人かもしれないが、有名人ならではの苦労もあるようだ。

 「知らない人に歩いていると『あらっ』とか声をかけられたり多いです。向こうは自分のことを知っているけど、こっちは一瞬パッと見て『誰だっけ、知り合いかな』って正直慌てることもあります。この間も近所を散歩していたら、茶色のラブラドルを連れている方に『あら、きよし君』って声をかけられて、知らない人だったんですが『かわいいですね』って犬をワシャワシャしていたら、速攻インスタで『氷川きよし君と道で遭遇。ウチのワンちゃんを触ってもらった。写真撮ってもらえば良かった』って上げられていました。その時に『あ~、自分は芸能人だな』と感じたりしました。自分、鈍感なんですよ。突き詰めて考える所と抜けている所があますね。買い物でしてても普通に写真週刊誌に撮られるし。気にしない所はまったく気にしないけど、気にする所が気にする。見せ方とか気にしますよ」

 シングル35作品の中で好きなトップ3は最近の楽曲だ。今は演歌の殻を破る新たな“氷川きよし”を目指しているようだ。

 「好きな3曲をあえて上げると最新の『母』。それに『大丈夫』と『限界突破』かな。それは今の自分が一番好きだと思いたいからです。『大丈夫』は笑いとばせぬ悲しみも バネになれ―とかの一節がリアルに自分に響きましたし『限界』でも自分は励まされた。歌詞で壁をブチ破る―というのがありますが、この歌で自分も壁というか限界突破できました。何か自分の人生を歌わないと歌えないというか演じられた思いがあって『自分の事を歌えばいいんだ』って自分自身を肯定できました。周囲から『あまり自分を出すな』といわれても、今は『出します。私は個々に生きています』と胸を張れます」

 ◆「一発屋」といわれ

 最優秀新人賞を獲得して紅白にも初出場。前途は洋々に見えたが、一部からは屈辱的な扱いを受けていた。

 「2年目のジンクスとかあるじゃないですか。自分もテレビ界や各方面から『消える一発屋』とかいわれもしました。フジテレビだったかな。特番で椅子に座らせられて『一発屋といわれてどう思いますか』と聞かれた時はショックで頭が真っ白になりましたが『(2枚目のシングル)“大井追っかけ音次郎”で頑張りたいと思います』って、すごい頑張って言葉にしたのを覚えています。出演していてすごいせつなくなって『結局、1回売れてもまた次が売れなきゃダメなんだ』と思い知らされました」

 ―“氷川青年”には試練だった。

 「そうですね。それから毎日のように落ち込んで、やめたいとも思ったけど、長良会長にやめたいなんて言えないでしょ。『お前何いってんだ』と言われるのが関の山で、当時はお金をもらうよりプレッシャーから解放されたいという気持ちの方が大きかったですね。とにかく2曲目が売れてホッとしました。その年の紅白で歌手別で最高視聴率を取ったんですよ。その時には浮かれましたね。『国民の半分見ているんだ。自分って凄い』って。今思うとすごい勘違いなんですよね。あるスポーツ紙の記事で『(氷川の)後ろで踊っていた女の子のダンサーのスカートが短かったから視聴率良かった』いう記事を見た時に『自分の歌が聴きたかったんじゃないのか』とかいろいろ考えたりもしました。ちょっとうぬぼれていた自分もいたので、これじゃ3年目のジンクスもあると思って、これまでの股旅モノを変えようと決心してできたのが『きよしのズンドコ節』でした。これが売れなきゃ辞めなきゃとも思いましたが、そしたら当たってまた『自分ってすごいな』って。そこは立ち直りは早いです(笑い)。この辺りからですね、ファンが広がってきたのを感じていました」

 ◆自分に意見するもう一人の自分がいる…きよしの独り言

 「今、自分は演歌歌謡の歌手ですが、もしポップスを歌っていたらこうはいかなかったでしょうね。自分には流行に左右されず変わらずに応援して下さる方がたくさんいらっしゃる。演歌をやってきたからこそ『人間・氷川きよし』として応援していただけると思っています。ファンの方ってどっかで恋愛感情とかあるじゃないですか、特に若い方たちは。結婚したとたんにパッタリとやめたり。自分はファンの方に人間として家族愛というか深いモノを感じていて、それが根底にあるから人間対人間、つながりを持てる作品を歌ってきたという誇りはあります。

 (演歌を志した)13、14歳ぐらいから冷静に芸能界や音楽を勉強して、自分を客観的にプロデュースしていましたが、それは今でも変わっていないです。ご意見番みたいに自分に意見するもう一人の自分が存在していて、このご意見番がけっこういい加減で、意見を聞く時もあるし『いちいちうるさいな~』って聞かない時もある。自分の中にいろんな『氷川きよし』がいて、たとえば『そうなんですよ。大根が98円なんですよ』というような主婦感覚もあるから、その辺りでファンのお母さん方と気が合うのかもしれないです。実際、安いモノを狙って店を2、3軒回りますもん。自分でチャリンコこいで。そこはこだわります(笑い)。今、楽しい事は毎日自分でお食事作ることかな。材料買って料理して。ストレス発散にもなりまし、自分にとっては大事な時間です」

 ◆氷川 きよし(ひかわ・きよし)本名・山田清志。1977年9月6日、福岡市生まれ。42歳。2000年2月に「箱根八里の半次郎」で歌手デビューし、同年に「NHK紅白歌合戦」に初出場して以来、昨年まで20回連続出場。2月4日に35作目となるシングル「母」を発売した。178センチ、62キロ。血液型A。 報知新聞社