元芸人のマネージャー明かす“サンドの素顔” 解散危機や震災報道を変えた一言とは

引用元:オリコン

 “好感度No.1芸人”として今年も多方面で大活躍だったサンドウィッチマン。長い下積み時代を経て、2007年の『M-1グランプリ』優勝をきっかけにブレイク。現在、18本ものレギュラー番組を抱え多忙を極めている。そんな2人を『M-1』優勝直後からずっとそばで支えてきたのが、マネージャーの林 信亨氏。実は元芸人で、若き頃は彼らと同じ舞台に立っていた。古くからサンドウィッチマンを知る林氏に、芸人視点、そしてマネージャー視点から2人のブレイクの秘訣を聞くと、彼らのさらなる魅力が見えてきた。

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■“サンドの為なら”と芸人からマネージャー転身「ただただ2人の成長がうれしかった」

――サンドウィッチマンのお2人とは長い付き合いなのですね。

【林 信亨】デビュー当時から知っています。僕は23歳で東京に出てきて、10年ほど芸人をやっていました。最初の相方はじゅんいちダビッドソンで、サンドウィッチマン(以下、サンド)と同じステージにも出ていました。僕が芸人を辞めて仕事で名古屋に転勤になった時には、高速バス乗り場までサンドの2人が見送りに来てくれました。それくらい仲も良くて、付き合いで言うと約20年になります。

――では友人関係からマネージャーに?

【林 信亨】そうですね。ちょうどバス乗り場まで見送りに来てくれた半年後に『M-1』で優勝したんです。それから一気に忙しくなった。急な展開で人手不足にもなり、事務所から「一緒にやりませんか」と声を掛けられました。

――元々芸人さんで、いきなり裏方をやることに葛藤はなかったですか。

【林 信亨】正直、未練や嫉妬の気持ちを持ってしまうのではとも思いました。でもそれよりも「このまま彼らを一過性のタレントにはしたくない」そんな気持ちの方が強かった。昔から2人の人間性が大好きで、“彼らの為なら親身になれる”と思ったんですよね。

――実際マネージャーをやってみて、いかがでしたか。

【林 信亨】それが心配していた葛藤は全然なくて、純粋に2人の成長がうれしかったですね。憧れていた笑いの天才たちに2人が織り込まれていって、僕が切り開けなかったただただすごい世界を見させてもらって感謝しています。

■一度は解散も決意していた下積み時代、それでも仲間のブレイクは心から祝福していた

 これまで一度も喧嘩をしたことがなく、コンビ仲の良さでも知られるサンドウィッチマンだが、実は彼らにも解散の危機があった。2人が29歳の年、富澤は会社を辞めさせてまで伊達を芸人の道に誘った自分を強く責め、解散の話を持ち掛けたのだ。しかし伊達は「まだ解散するまでの挑戦を俺たちはしていないんじゃないか」と引き留め、解散は免れたという。

 そして翌年2005年を勝負の年と決め、この年テレビでネタができなかったら辞めることを決意。すると、念願の『エンタの神様』(日本テレビ系)初出演が決まったのだ。2年後にはM-1優勝。その日だけで約20本ものテレビ出演が決まった。

――「勝負の年」と決めた途端にテレビ出演が決まるだなんてドラマチックですよね。

【林 信亨】そうですね。彼らのブレイクのきっかけは、もちろん『M-1』も大きかったですが、僕はやはりこの時の『エンタの神様』がターニングポイントだったと思います。伊達が最近言うのは「面白かったのに売れなかったのは僕のせいだ」と。2人は昔から面白かったんですが、ツッコミの技術が追いついていなかったんです。『エンタ』に初めて出演してから、ネタの作り方ががらっと変わりました。無駄なセリフが一切なく、途中から見ても面白い。テレビに適したネタに変わったんですよね。『M-1』で優勝できたのも『エンタ』での経験がかなり大きかったと思います。

――本当に解散しなくて良かったですね。

【林 信亨】あの時「仙台に帰ります」と言われて、「辞めるのか、寂しいなぁ」と思ったのを覚えています。芸人は先の見えない道を走ってる。売れない芸人は真面目であればあるほど考え込んでしまうんですよね。伊達をお笑いの世界に誘った富澤も、自分自身に相当責任を感じていたようです。

――同期や後輩が次々と売れていく中で、焦りもあったのでしょうか。

【林 信亨】いや、それが彼らは「良かったね!おめでとう!」と心から言うんです。当時僕なんかは、そんなことは1ミリも思いませんでしたよ(笑)。だから直接2人に「なんであんなに喜ぶんですか?」と聞いたら「だって仲間が売れるって心底嬉しいじゃないですか」と。そう言われて「まじか!」と本当に驚きました。焦りがある中でも、そうやって他の芸人さんの成功をお祝いできる彼らの人間性には本当に感心しました。

■「1年目よりも10年目」林氏のマネージャーとしての先見の明が今日の活躍に

――『M-1』優勝後も爆発的にブレイクしたというよりは、今日までじわじわと人気を伸ばしてきていますよね。

【林 信亨】『M-1』で優勝した翌年はオファーがたくさんきて、ゴールデン番組からもたくさん声をかけてもらいました。憧れの番組ですからどんどん出たい、出してあげたい気持ちはありましたが、僕の中では無理をさせたくない気持ちもあった。ゴールデンのお笑い番組は凄い世界ですから、徐々に慣れていかないとダメだと。その時思っていたのが、”『M-1』優勝後の1年目よりも10年目の方が忙しくなるようにしよう、目先のものを取りにいかないようにしよう”と。スケジュール管理は完全に任せてもらっていたので、色んなでかい仕事を断っていたと2人が聞いたら多分びっくりすると思います(笑)

――その後、全国放送で初のレギュラーとなったのが『バイキング』(フジテレビ系)。コント芸人として定評があった中、ロケでも実力を発揮することが全国に知れ渡りましたよね。

【林 信亨】そうですね。『バイキング』での“地引網コーナー”の反響がすごく大きくて、そこからさらに幅が広がって、2度目の大きなターニングポイントになったと思います。『M-1』で優勝する前から大事にしてきた仙台のレギュラー番組が素人とがっつり絡むロケ番組だったので、そこでの経験が“地引網コーナー”にも間違いなく繋がっていましたね。