フィギュアまで発売されたインテリヤクザ松永 「仁義なき戦い 広島死闘篇」 怪優・成田三樹夫の系譜

引用元:夕刊フジ
フィギュアまで発売されたインテリヤクザ松永 「仁義なき戦い 広島死闘篇」 怪優・成田三樹夫の系譜

 【怪優・成田三樹夫の系譜】

 今年没後30年を迎えた個性派俳優、成田三樹夫。彼が映画界に残した足跡は大きい。代表作から記憶に残るエピソードを披露しよう。

 1935年、山形県酒田市に生まれた成田。上京して東大に入学するが、水が合わずたった1年で退学している。その後、山形大学に入り直すも2年半で退学すると、俳優の道へ。俳優座養成所に第12期生として入った。勝新太郎や市川雷蔵に心酔していた彼は大映と契約するもなかなか芽が出なかった。

 だが65年、『座頭市地獄旅』で勝新の敵役を演じるとニヒルな雰囲気が注目された。『ある殺し屋』(67年)では市川雷蔵と張り合う準主役を得るなど、テレビにも進出し、じわじわと独特の地位を獲得していく。

 まずこの映画から。成田にとっても代表作といえるのが『仁義なき戦い』シリーズ。第1作の大ヒットを受けて製作された『広島死闘篇』『代理戦争』に加え、『新仁義なき戦い』から『組長の首』『組長最後の日』と5作に出演している。

 『広島死闘篇』『代理戦争』では、村岡組若衆頭の松永弘を演じている。松永は網野光三郎氏という実在した元ヤクザがモデルだとされる。

 菅原文太演じる広能昌三をはじめ、荒々しい登場人物たちが跋扈(ばっこ)するなか、細身のスーツを着こなすインテリヤクザを思わせる松永は異色の存在だ。

 モデルとされる網野氏もヤクザから足を洗って以降、実業家に転身し、ビルメンテナンス会社を経営した。松永も戦後の混乱から高度経済成長へと向かっていく日本の姿を象徴しているのかもしれない。のちにフィギュアまで発売されたのだから、インパクトの大きさがうかがわれる。

 ちなみに『広島死闘篇』は実際に広島で撮影がしたいと深作監督が熱望したが、まだ抗争がくすぶる広島では無理だと撮影隊は及び腰。しかし広島出身の東映・岡田茂社長が警察に警備させるから大丈夫だと言って説得、ロケを承知させたという。

 実際、警戒に当たった私服の刑事たちはみんな角刈りでガタイのいい男たちばかりだったので、まるで本物のヤクザに囲まれているようだったと、のちに撮影隊は語っている。(望月苑巳)

 ■成田三樹夫(なりた・みきお) 1935年1月31日生まれ、山形県出身。俳優座養成所の同期には松山英太郎、山本圭、中村敦夫らがいる。90年4月9日、スキルス胃癌のため、55歳で死去した。