相棒の仙之助はセブ島にも毬を持って行く芸熱心な男でした

相棒の仙之助はセブ島にも毬を持って行く芸熱心な男でした

【太神楽 鏡味仙三郎 大いに語る】#6

 太神楽師にとって、共に曲芸を演じる相棒はかけがえのない存在である。仙三郎は相棒の仙之助を2001年に亡くしている。仙之助はどんな人柄だったのだろうか。

「あたしよりずっと繊細で、ひとつのことを一生懸命にやって極めるという芸熱心な男でした。毎年2月下席(20~28日)だけは寄席を休んで、2人の知り合いが在住してるセブ島へ遊びに行ってたんです。あたしはゴルフ道具だけ持って行くのに、仙之助は曲芸の毬を持ってって、ホテルの部屋で稽古してるんですから」

 2人で行った海外公演の思い出もある。

「アメリカはシアトルで公演しました。通訳に解説してもらいながら演じました。ヨーロッパはイタリアのフィレンツェです。現地で和食レストランをやってる社長から、店の何周年かのイベントに呼ばれました。滞在中は店の日本食ばかり食べてて、教会に頼まれてやった時だけ、そこの神父さんがスパゲティを作ってくれました。2人でおいしくいただいたのがいい思い出です」

 若い頃は太神楽師らしからぬ仕事もしたとか。

「夏場にハワイアンバンドとショーに出て、ファイアダンスをやったんです。1メートル20センチの棒の両側に巻いた布に油を染み込ませて火をつけたのを投げたり回転させたりする。もちろん黒紋付きに袴なんて格好じゃできませんから、上半身裸で海水パンツに腰みのをつけてまして、打楽器のリズムに合わせ、たいまつの曲取りをしました。後ろにいたバンドの皆さんの白いズボンに、浸した油が飛び散って申し訳なかったです」

 どんな仕事でも息が合うコンビだった。

「2001年になると、仙之助が、食べ物が喉に引っかかってうまくのみ込めないと言うようになった。『病院で検査してもらわないとダメだよ』と言ったのに行かない。少々の痛みは我慢しちゃうやつなんです。3月中旬に、池袋演芸場の楽屋のトイレで吐血したのを隠して、その後末広亭に行った。帰りに吐血のことを聞いて驚きましたよ。次の日に病院で検査したら、食道がんだという。4月に手術をしたんですが、胃や背中にまで転移した手遅れ状態で、余命3カ月を宣告されました」

 仙三郎が受けたショックは想像に難くない。 (つづく)

(聞き手・吉川潮)

▽鏡味仙三郎(かがみ・せんざぶろう)1946年、岩手県盛岡市出身。55年に12代目家元・鏡味小仙に入門。前座名「盛之助」。57年、池袋演芸場で初舞台。73年に故・鏡味仙之助とコンビ結成。2002年、鏡味仙三郎社中を結成。趣味はゴルフとオートレース。近著に「太神楽 寄席とともに歩む日本の芸能の原点」(原書房)がある。