明日の私に吹く風は… 小説家・乾ルカ、非現実的な描写から一転「明日の僕に風が吹く」上梓

引用元:夕刊フジ

 小説家への一歩は母親の、「そんなにヒマなら小説でも書いてみなっ」の売り言葉だ。買い言葉は「なら書いてみようかなぁ」と、何とも弱々しいものだった。

 ワープロに向かいキーをたたき、100枚の原稿用紙のマス目を埋めた。その後、別の作品を学生時代に愛読していた少女向け小説「コバルト文庫」の「ノベル大賞」に応募、最終選考まで残ることになる。

 短大の推薦で銀行員となったが体調をくずしてすぐに退職。放送大学や官公庁の職員、北海道大学の臨時職員などをいずれも任期満了で辞め、次の職探しに奔走…のはずが、『占星術殺人事件』(島田荘司著)、作家アリスシリーズ(有栖川有栖著)、筒井康隆の『七瀬ふたたび』『エディプスの恋人』などの著作世界に時間を忘れて迷い込んでいたころの話だ。25歳のときだった。

 今でも書くことは生きることと重なる半面、現実逃避の面があるという。

 「ひとつ年上の姉はプロトタイプの美人でかつ優等生。一次試験で国語を大ミスしたのに北大現役合格を決めたんですから。物心ついたときから周りからはいつも出来のいい姉と比較され、中学生のときには先生に『お姉さんとお母さんは美人なのに、あなたはねぇ』と言われてしまい…。自分は何の取りえもないダメな人間だと随分落ち込んだものです。その反動からか、家では思うようにならないとギャーッと反抗し、完全な内弁慶になっていました」

 幼いころ、蒔(ま)かれたダークでひりひりとした感情の種が、次第に芽吹いてゆく。そして相変わらずの偏食、動物の死骸などに対する好奇心-。

 ■現実逃避

 現実逃避する方法はすでに身につけていた。本を読むことだ。その中では超能力者やスーパーヒーローがいとも簡単に難問を解いてしまう。「あんな力があったら」と嘆く一方で、小学3年のとき、読んだアガサ・クリスティ作の、子供向けに編集された『アクロイド殺人事件』の衝撃が何度もよみがえる。

 「犯人は、ええっという意外な人物だったし、謎解きの方法なんかもとにかく面白い。大人になるにつれ、あの本が、不条理でアンフェアなものが世の中には多く存在することを知るきっかけを与えてくれたんだなと思います」

 だから作品にはそれらを取り込みたい。幽霊や超能力者にその具現化を試みる場合もある。

 「それに書くこと自体、自分が超能力者にもヒーローにもなれる、その世界の『神』になることができるんです。登場人物を自在に動かし、好きに時代を選び、そこで自由に生きられるのは気持ちのいいものです」

 ■有から無

 これまで手がけたホラー、ミステリーでは人身売買や臓器移植などの社会問題をモチーフにする中、超能力者以外にも生首、幽霊、タイムループなど非現実的なものをちりばめてきた。そんな“ルカワールド”全開の作品に読者も喜んだ。

 だが、新作『明日の僕に風が吹く』には亡霊も超能力者も出てこない。これまでの作品と共通するのは、ある種の絶望と透明感に満ちた文体だけ。

 舞台は、北海道の日本海沖に浮かぶ実在の「天売(てうり)島」だ。

 「札幌テレビ放送の番組審議委員を5年間務めた関係でお知り合いになった、はまなす財団(公益財団法人)の濱田康行理事長から、天売島に生徒数が激減し廃校寸前のところに大人を入学させて存続させた高校があることを教えていただきました。現地の町おこしなども手伝っている組織なんですが、私は島や島の人たちの話を取材し、ここを舞台に書ける、と思ったんです」

 物語は、不登校などの問題を抱えた5人の高校生が成長する姿を追っている。主人公がどん底からはい上がった際に見る光り輝く風景は、彼らの悪くはない未来を暗示しているかのようだ。

 ■「書いてきたもの、多くの登場人物たち、自分自身もすべて消えてほしい、かな」

 「これから? 書いてきたもの、多くの登場人物たち、自分自身もすべて消えてほしい、かな。なぜそう思うのかは私にも分からない。口先だけかもしれませんし、そうでないかもしれません。でもそう思うんです」

 書くことで生み出した世界を「有」とするなら、それらをもろとも消去する「無に還(かえ)る」作業とはどんなものだろう。最後まで見届けたいと願う人は多いはずだ。(ペン・冨安京子/カメラ・高橋朋彦)

 ■乾ルカ(いぬい・るか) 1970年2月20日、札幌市生まれ。49歳。小説家。藤女子短期大学卒。2006年、『夏光』で第86回オール讀物新人賞を受賞し、デビュー。10年、『あの日にかえりたい』が第143回直木賞候補、同年『メグル』で第13回大藪春彦賞候補に。近著に『明日の僕に風が吹く』がある。