中森明菜「歌手になって母を喜ばせたかった」 スタ誕に合格、11社から獲得の意向も…

引用元:夕刊フジ
中森明菜「歌手になって母を喜ばせたかった」 スタ誕に合格、11社から獲得の意向も…

 【歌姫伝説 中森明菜の軌跡と奇跡】

 芸能界の頂点に立ち続けてきた中森明菜だが、独り立ちした1990年代はさまざまな人間関係がうごめき、次々にスキャンダルに巻き込まれていった。その中で数多くの挫折を味わい、結果として人間不信に陥っていったことは否めない。

【写真】頭を丸めた明菜「歌姫2」のジャケット

 明菜のデビューは82年。いわゆる“花の82年組”の1人だった。同期には小泉今日子(53)や早見優(53)、堀ちえみ(52)、石川秀美(53)、松本伊代(54)、三田寛子(53)、シブがき隊らがいる。

 当時を知るアイドル・ウオッチャーは「82年には他にも原田知世(52)や伊藤さやか(56)、つちやかおり(55)ら注目のアイドルが大量にデビューしましたが、明菜はその中でも異彩を放っており、その2年前、山口百恵(60)が引退した80年にデビューした松田聖子(57)と並んで、明菜は“ポスト百恵”と言われました」。

 デビューのきっかけは視聴者参加型のオーディション番組「スター誕生!」(日本テレビ系)。作詞家の阿久悠氏(故人、享年70)が企画した番組で、百恵、森昌子(60)、桜田淳子(60)の“花の中三トリオ”も生んでいる。阿久氏の他に中村泰士氏(80)や都倉俊一氏(71)、三木たかし氏(故人、享年64)、森田公一氏(79)といったそうそうたる面々が審査員を務めていた。

 明菜が「スタ誕」に初めて応募はがきを送ったのは78年。中学校に入学してすぐだった。明菜は応募の理由を、後に「歌手になって母を喜ばせたかった」と語っていた。実際、明菜が応募したことを知って一番喜んだのは母親だったという。

 明菜をデビュー当時から見守り続けてきた寺林晁氏(現エイベックス・レーベル事業本部アドバイザー)は明かす。

 「母親は明菜がおなかにいるときから美空ひばりの曲を胎教として聴かせてきたといいます。それこそ生まれる前から歌手にしたかったのでしょう。そんな母親に喜んでもらいたいとオーディションに応募したことは確かです。とにかく、母親の夢は明菜をひばりさんのような歌手にしたかった。ですから明菜が歌手になって一番喜んだのはお母さんだったんです。だからではないですが、明菜にひばりの曲を歌わせたら驚きますよ。若手のポップス歌手では、おそらく右に出るものがいないかもしれませんね」

 番組から明菜に予選会の通知が届いたのは、応募からおよそ1年たってからだった。予選会は東京・有楽町のよみうりホールで行われた。明菜は岩崎宏美(61)の「夏に抱かれて」を歌い、見事通過したが、中学生としては大人びた雰囲気が評価されなかったという。

 それでも歌手になることを諦めなかった。そして3度目の挑戦となる81年8月2日。16歳になったばかりの明菜は山口百恵の「夢先案内人」を歌い、ついに決勝戦に進んだ。ちなみに、この時の得点は392点で「番組史上最高得点での合格」だった。審査員の中村泰士氏は、明菜の歌唱をベタ褒めしていたという。

 その年の暮れ。12月6日の決勝大会でも「夢先案内人」を歌唱曲に選んだ。結果、11社のプロダクションやレコード会社から獲得の意向を示すプラカードが上がった。

 その後、獲得の意向を示した芸能事務所やレコード会社の担当者と日本テレビ、そして親族との話し合いが何度も行われた。そこで内定したのは千昌夫(72)、ぴんからトリオ、新沼謙治(63)、桂銀淑(58)といった演歌系の歌手が多く所属していた大手芸能事務所「第一プロダクション」と、老舗レコード会社の「日本コロムビア」だったのだが…。(芸能ジャーナリスト・渡邉裕二)

 ■中森明菜(なかもり・あきな) 1965年7月13日生まれ、54歳。東京都出身。81年、日本テレビ系のオーディション番組「スター誕生!」で合格し、82年5月1日、シングル「スローモーション」でデビュー。「少女A」「禁区」「北ウイング」「飾りじゃないのよ涙は」「DESIRE-情熱-」などヒット曲多数。

 NHK紅白歌合戦には8回出場。85、86年には2年連続で日本レコード大賞を受賞している。