【あの時:日本レコード大賞<5>】麻丘めぐみ「ちゃうねん。もうどないしよう」

引用元:スポーツ報知
【あの時:日本レコード大賞<5>】麻丘めぐみ「ちゃうねん。もうどないしよう」

◆麻丘めぐみ(72年最優秀新人賞)

 “大みそかはレコ大と紅白”がお茶の間の定番だった。1959年にスタートした日本歌謡界最大の音楽イベント「日本レコード大賞」が今年、令和に入って第1回目となる。12組の歌手や作家が当時を振り返る。(この連載は2018年12月にスポーツ報知掲載の復刻)
 ※「第61回日本レコード大賞」は12月30日午後5時半からTBS系で放送される。

【写真】日本レコード大賞司会の2人

 レコ大の歴史で新人賞レースで最も激戦といわれるのが、麻丘めぐみが最優秀を受賞した1972年。他に新人賞は郷ひろみ、三善英史、森昌子、青い三角定規らが選ばれ、西城秀樹は落選しているほど。麻丘は「芽ばえ」でデビューしたが苦労のレコーディングだった。

 「ディレクターは元ヴィレッジ・シンガーズの笹井一臣さんでした。私は歌のレッスンをしたことがなかったので『必ずレッスンをさせてください』と最初に取り決めましたが、いきなり『今月レコーディングするから』って。収録日は1週間後ぐらいでもうパニックですよ。取りあえず歌ってみたらいきなり『声がかわいくない』って。私の一番コンプレックスで一番言われたくないことを言われて涙が止まらなくて撃沈しました。再収録では目いっぱいかわいい声を作ったら『できるじゃない』って。あれは必死に作っている声です」

 麻丘の姉は遠藤実さんの内弟子を経て歌手デビューしたが、芸名を何度か変えても日の目をみなかった。姉の付き添いをしていた妹はスカウトされると、デビュー1か月でアイドルとして注目を浴びていった。

 「当時は民放とNHKに新人オーディションがあって、私、NHKは1回落ちたんですが(2回目に合格)民放は1位で通過。優先的にテレビ出演できて(デビュー当日の)6月5日に『NTV紅白歌のベストテン』の新人コーナーに出ました。7月にはベスト10入りしていました。姉がミカン箱に立って歌うとかキャンペーンの大変さを見ていたから複雑で『歌もうまくない私が歌手というのはおこがましい。お姉ちゃんならよかったのに』と、毎日帰っちゃ泣いていました」

 気持ちが乗らない中でも「芽ばえ」はヒットし、最優秀の候補になっていった。

 「新宿音楽祭は昌子ちゃんと私がいただきましたが、歌謡大賞は三善君と昌子ちゃん。レコ大は昌子ちゃんが最有力で事務所が大きいから『頑張れよ、分かってんだろうな』みたいなことを言われてシュンとなっていました。彼女、緊張するとおなか痛くなる人で、私はいつも励ましていました」

 受賞の瞬間は。

 「ただビックリ。『えっ私』って。もう頭の中は『?』しかなくって、司会の森光子さんが私の背中をさすりながら『めぐみちゃん、うれしいのよね。びっくりしちゃったけどうれしいのよね』とすごいフォローをしてくれていたのですが、私ひと言も発しないんですよ。心の中では『私じゃないでしょう。昌子ちゃんにあげた方がみんなが喜ぶでしょ』って。でも舞台に上がってきた姉と高校の同級生の顔を見た途端、バーッと涙が出てきて、泣きながら歌ってたら森さんが『うれし涙です。初々しいうれし涙です』って。心の中で『ちゃうねん。もうどないしよう』と申し訳ない気持ちでした」(構成 特別編集委員・国分敦)

◆モデル出身で浮いちゃった

 子役やモデルを経て歌手デビューしたが、場違いな意識を抱えていたという。「当時は『モデルが何で歌手やってんの』という空気が満載。オーディション番組が始まった頃で五木(ひろし)さんの『全日本歌謡選手権』が先で『スタ誕』は森昌子ちゃん。全国からスターになるぞという筋金入りの人たちばかりで、スカウトでこの世界に入っているのは私と南沙織ちゃんと1年後輩の浅田美代子ちゃんぐらい。この3人は楽屋でも浮いていました」

 ◆麻丘めぐみ(あさおか・めぐみ)本名・藤井佳代子。1955年10月11日、大分県生まれ。64歳。3歳から子役・CMモデルとして活躍し、72年「芽ばえ」で歌手デビュー、レコード大賞最優秀新人賞受賞。翌年「わたしの彼は左きき」が大ヒット。83年に芸能界復帰後は女優として舞台やテレビ等で活躍。2000年に「シアタードリームズ・カンパニー」を主宰し、芝居のプロデュース・演出も手がけている。 報知新聞社