すべてを断ち切って再出発…デビュー当時からのプロデューサーの元へ 歌姫伝説・中森明菜の軌跡と奇跡

引用元:夕刊フジ
すべてを断ち切って再出発…デビュー当時からのプロデューサーの元へ 歌姫伝説・中森明菜の軌跡と奇跡

 【歌姫伝説 中森明菜の軌跡と奇跡】

 東京、大阪、名古屋で開催される予定だったファンクラブ主催のバースデーコンサート中止による払い戻し、日本テレビ系主演ドラマ「ボーダー 犯罪心理捜査ファイル」(1999年1~3月)の降板、所属レコード会社からの追放劇…中森明菜の世紀末は不運、トラブルの連続だった。

 当時、明菜の周辺を取材していた芸能リポーターの梨元勝氏も生前、週刊誌のコラムなどで「どうしてこうトラブルが多いのだろう」とした上で、「個人事務所のマネジャーが辞めたとか、新しいマネジャーになってよく分からなかったとか…もう無責任の限度を超えてしまっていた」「こうなると、今回のシングルとアルバム(99年12月のシングル『Trust』とアルバム『Will』)が、明菜最後の“引退CD”になりかねない雲行きだ」と記したほどだ。

 波乱に満ちた状況で新世紀-デビュー20周年を迎えた明菜は、2001年5~6月にコンサート・ツアー「ALL ABOUT AKINA 20th Anniversary IT’S BRAND NEW DAY」を全国18都市で自主開催した。

 そんな姿を見かねていたのがデビュー以来、明菜を見守り続けてきた寺林晁氏(現エイベックス・エンタテインメント レーベル事業本部アドバイザー)だった。

 寺林氏はウドー音楽事務所からワーナーパイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)に移った異色の人物。ワーナーでは洋楽宣伝を担当していたが、矢沢永吉が同社に移籍したことから邦楽に移り、さらにCHAGE&ASKAのデビューにも携わっていた。

 その寺林氏が自ら獲得に動きデビューさせたのが明菜だった。それだけに思い入れも人一倍強かった。当時を振り返る。

 「実はその時、明菜は他の大手芸能事務所とレコード会社に決まって動いていたんですよ。それをね、本人や家族を直接説得して最終的に強引に引っくり返したんです。とにかく彼女には魅力があったんです」

 その結果、所属事務所は研音、レコード会社はワーナーに決まった。寺林氏は、明菜が独立後も陰で音楽活動を支えたが、自らもワーナーを離れたことで疎遠になっていた。だがその後、「日本フォノグラム」(現ユニバーサルミュージック)の邦楽宣伝部長となり、松田聖子の移籍などで力を発揮していた。しかし一方で「いつかは明菜も…」と思い続けていた。

 その時が来た。01年の暮れだ。筆者のもとに寺林氏から連絡が来た。

 「もう、分かっているとは思うけど…」

 寺林氏はそう切り出すと、続けて「明菜をもう一度やろうと思う。やっぱり、ここで明菜を潰すわけにはいかないだろう。アイツに、それだけの才能があるからな」。

 明菜復活のため、寺林氏は周辺を整理してきた。明菜の音楽活動に出資してきたという人物からの抗議もあったというが、すべてを断ち切って新たな態勢を作った。

 結局「何だかんだと半年以上…1年近くはかかったかもしれない」。

 そしてデビュー20年目を迎えた02年、明菜はユニバーサルミュージックと正式に契約を結び、寺林氏の担当するレーベル「キティMME」から再出発した。

 メジャー復帰第1弾として寺林氏が考えたのはカバー・アルバム「-ZERO album-歌姫2」だった。これは、かつて寺林氏も陰で携わってきたカバー・アルバム「歌姫」の“続編”というべきものだった。

 「デビューの頃から私のことを見守り、プロデュースしてきてくれた大切な人」

 明菜は寺林氏を頼り切っていた。(芸能ジャーナリスト・渡邉裕二)

 ■中森明菜(なかもり・あきな) 1965年7月13日生まれ、54歳。東京都出身。81年7月11日、16歳の誕生日直前に出場した日本テレビ系のオーディション番組「スター誕生!」で合格し、82年5月1日、シングル「スローモーション」でデビュー。「少女A」「禁区」「北ウイング」「飾りじゃないのよ涙は」「DESIRE-情熱-」などヒット曲多数。

 NHK紅白歌合戦には8回出場。85、86年には2年連続で日本レコード大賞を受賞している。