舞台版『PSYCHO-PASS サイコパス Chapter1―犯罪係数―』の魅力を考察 リアリティとねじれの構築

引用元:2.5ジゲン!!

2019年10月上演された舞台版『PSYCHO-PASS サイコパス Chapter1―犯罪係数―』。同名アニメの1期をもとに舞台化された作品である。

タイトルに「Chapter1」と銘打たれている通り「Chapter2」もあるだろう、ぜひあってほしい。そんな筆者の願いも込めて、「もし続編があれば観てみたい」「気になっていたが劇場に行き損ねた」読者に向けて、本作の魅力を考察してみたいと思う。

「PSYCHO-PASS サイコパス」のリアリティを身にまとって演じるキャスト陣

原作のアニメ「PSYCHO-PASS サイコパス」は近未来が舞台だ。現代よりも進んだ技術も登場するが、この物語の軸はその近未来SFの部分ではなく、公安局もしくは社会システムによりはじかれた人々の人間ドラマの部分だと思っている。

人々の内面が数値で計測され監視され、管理される社会。多くの人々が選択する悩みから解放され、自分の生きる道すらも数値によって演算される。

そんな社会において、超能力のような特殊能力を使うでもなく、チート級の強さを持つでもなく、“数値で表現される人間”ではなく“生身の人間”として苦悩し立ち上がっていく登場人物たちが魅力的な作品だ。

目の前で生身の人間が演じるこの舞台版は、まさに筆者が作品の醍醐味だと感じている部分の具現化そのものであった。

アンサンブルの手によって変化していくステージ上のセット。加えて「舞台化ならここはプロジェクションマッピングで表現するだろう」と予想していたシーンが、リアルな舞台装置として姿を現した。

これによって、数値として政府に捉えられる人間ひとりひとりに体温があること、そして監視官も執行官も近未来のどこか“スーパー”な存在などではなく、ひとりの人間であると強く実感させられたのだ。

各キャストのキャラクターの再現性も実に絶妙だった。主演の久保田悠来は、どの役も“久保田色”でありながら、キャラクターとしての説得感が同居する稀有な俳優だ。声なども特別寄せているという感じではないのだが、シルエットを観た時点で「狡噛慎也だ」と脳が理解をする。

「頭ではなく心で」。

公安局のシーンで度々登場するセリフだが、頭とは単に考えることを表すのではなく、広義ではシビュラシステム自体も指しているのではないだろうか。システムの中で生きることを余儀なくされているが、心で感じて行動することを忘れるな、と。その人間ドラマの基本ともいうべき泥臭さが、セットを縦横無尽に駆け回り汗水垂らして捜査する姿から感じられた。

公安局の面々がリアリティある存在感を放つ一方で、前山剛久演じる槙島聖護は圧倒的な非リアリティを表現していた。

文字通り高いセットのうえで高みの見物を楽しみ、微笑み、突き放す。彼の登場シーンは、前方席からは大きく見上げないとみえない位置が多かった。みえそうで、みえない。表情が笑っているようにも憂いているようにもみえる。

彼の登場する位置そのものも、槙島聖護という掴みどころのない人物を表すための舞台装置の一部であったかのように感じられた。

劇場では正直「観やすい」と感じられなかったシーンや席位置があった。だが、あとで思い返すと「それすらも計算だったのでは……」と思えてくる。それほど緻密な演出が積み重ねられている印象を抱いた。