自宅介護中の松島トモ子さんが一度だけ流した涙/芸能ショナイ業務話

自宅介護中の松島トモ子さんが一度だけ流した涙/芸能ショナイ業務話

 18日、松島トモ子さんが母、志奈枝さん(98)の在宅介護をつづった「老老介護の幸せ」(飛鳥新社)が出版されます。

 ライオンに噛まれ、九死に一生を得たことで知られている松島さんは、1945年7月、当時の満州・奉天生まれで、誕生後まもなく終戦を迎えました。「母はカンガルーのように私をおなかに入れ、引きあげてきたそうです。そして『きれいな物も、おいしい物も知らないで死ぬんじゃないかしら』って精いっぱいの笑顔で子守歌を歌ってくれていたんです」。

 トモ子さんは3歳でデビューを飾ります。ステージママだった志奈枝さんですが、黒子に徹しました。

 松島さんの父はシベリアに抑留され、同地で死去。志奈枝さんは、夫の忘れ形見ともいえる松島さんに、言葉遣いや礼儀作法を徹底的に教え込んだに違いありません。

 母と娘の約束もありました。永六輔さんのラジオに出演していた松島さんが、ほのぼのとする主治医と志奈枝さんの様子を紹介すると「私の周りの年をとっている人をバカにしないでちょうだい」と激怒されたそうです。以来、必ず話していいかどうかの判断を仰ぐことがルールになりました。

 ところが3年ほど前、志奈枝さんに認知症の症状が現れます。尊敬している母の変わっていく姿を受け入れられない日々が続き、過度のストレスから自身がパニック症候群、過呼吸を発症し、体重は33キロになったこともありました。

 「仕事をやめて介護に専念する」という松島さんに、ケアマネジャーから「あなたが発狂してしまうから仕事は続けなさい」と説得されます。「この方がいなければ親子心中していたかもしれません」。

 そして、あるとき主治医から「介護で苦労している人のためにも話をしなさい」と声をかけられます。「自分自身が大変で励ますなんて思えませんでした。それに母との約束もありましたから…」と悩みました。

 現在も続く在宅介護の体験談をすることは、生半可な気持ちではできません。「人前で決して泣かないために、このとき泣くだけ泣いて、公にする覚悟を決めました」。

 「芸能界に入ったときに、親の死に目にも会えないと呪文のように言われてきました。間近に迫った今、親の死に目は圧倒的に大事です。命がけで日本に連れて帰ってきてくれた人です。バッタリと逝かれていたら、恩返しもできなくて、私が立ち直れなかったかもしれません」。

 松島さんはきょうも志奈枝さんに寄り添っています。(くのいち)