<土曜名盤>『Drug TReatment』を携えて黒夢は羽ばたき、夢を飛び越えた

引用元:OKMusic
<土曜名盤>『Drug TReatment』を携えて黒夢は羽ばたき、夢を飛び越えた

OKMusicで好評連載中の『これだけはおさえたい邦楽名盤列伝!』のアーカイブス。今回は多くのフォロワーを持ち、ひと時代のビジュアルシーンを…いや、J-ROCKシーンを牽引した黒夢の魅力を語るべく、それに打って付けの『Drug TReatment』を紹介したい。
※本稿は2016年に掲載

ヴォーカリスト、清春の強烈な存在感

ファルセットにビブラートを合わせ、さらにはハードコアパンク調シャウトも取り込んだ、清春(Vo)ならでは歌唱法は音楽シーンにおける発明品と言っていい。あの歌唱法が100パーセント清春のオリジナルかどうかは意見が分かれるところだろうが、もっとも有名なのは清春であることに異論は少なかろう。後のビジュアル系ヴォーカリストに与えた影響も絶大である。メジャーどころにも清春のフォロワーと思われるアーティストは結構いるし、もし黒夢がいなかったら、後の音楽シーン、少なくともビジュアル系シーンは様変わりしていたと言っても過言ではないと思う。

筆者が最初に黒夢を見たのは1992年だったが、やはり強烈な歌のインパクトが印象に残っている。強いて挙げれば、吉川晃司の歌唱法に近いとも思ったが、吉川のそれはキャロルや佐野元春辺りから続く、所謂“巻き舌唱法”が色濃く、清春の歌はそれまでほとんど聴いたことがないような代物であった。上手下手以前にエキセントリックで極めて個性的。インディーズで発表した『中絶』『生きていた中絶児』というショッキングなタイトルの音源と相俟って、初期黒夢の世界観を強力かつ決定的に推進した。

鳴り物入りのメジャーデビュー

1993年、1stアルバム『亡骸を…』のインディーズチャート1位という実績を引っ提げて、黒夢はその翌年、シングル「for dear」でメジャーデビューを果たす。途中メンバー脱退というアクシデントに見舞われたものの、1995年には3rdアルバム『feminism』がチャート初登場1位を記録。メジャーにおいても頂点に登り詰め、以後は一般大衆を意識した活動を続けていくと思われた。清春はCMにも出演した他、TVのバラエティー番組にも登場。実現しなかったが、某有名監督から清春に映画出演の依頼もあったという。しかし、黒夢はそうした俗に言う芸能界方向へ進むことはなかった。1996年の4thアルバム『FAKE STAR ~I’M JUST A JAPANESE FAKE ROCKER~』リリース後から活動をライヴ中心に転換。1997年から1999年まで、何と約250公演という破格の本数のライヴを展開した。90年代の黒夢はその活動そのものがスリリングであり、我々にさまざまな局面を見せてくれたと思う。

1997年から1998年にかけて、日本のCD売上げはピークを迎えた。基を辿れば、1990年からのビーイング・ブーム、1994年からの小室哲哉プロデュース作品の大ブレイクがあり、まだまだ活況が続くと思われていたシーンに対してメーカーも制作事務所もこぞって弾を注いでいった結果だったのだろう。黒夢もまたそんな状況下で上を目指したバンドのひとつであった。X(現:X JAPAN)が開拓し、LUNA SEAがさらに裾野を広げた所謂ビジュアル系シーンにも雨後の筍の如く、さまざまなバンドが現れたが、その中でも同じ年にデビューしたL’Arc~en~Ciel、GLAYと並んで、一部では(決してそんな呼び方がなかったが)御三家的な捉えられ方をされており、業界内でネクストブレイクの期待も高かった。