芸人ホーキング青山さん “強力ライバル”の出現が貧乏の契機に

芸人ホーキング青山さん “強力ライバル”の出現が貧乏の契機に

【役者・芸人「貧乏物語」】

ホーキング青山さん(芸人・46歳)

 1990年代、体に障害のある初の芸人として登場し、先駆けとなったホーキング青山さん。同じく身障者のライバルが出現してから貧乏になり、復活のきっかけはデビュー前からの憧れの人との出会いだった!?

■消費者金融に手を出して借金は最高で300万円

 最初は芸人をやりたくなかったんです。もともと大のお笑いファンで、ビートたけしさんが大好き。高田文夫さんの演芸の会や立川談志さんの落語会を何度も見にいっていて車イスのお客はいないから、話題になっていたみたいで。談志さんには「なんで立ち見席で座っているんだ?」とイジられるくらい名物の客になってました(笑い)。

 ある演芸会の出演者だった大川興業の大川総裁と知り合いになり、若手芸人のコンテストに「出てみろよ」と誘われ、最初は断っていたけど、出ることになって。それが94年。車イスだから、最初はお客さんに引かれたけど、途中からウケました。そこからすぐ下積みもなくデビューできたんです。車イスの芸人がいなかったので、新聞や雑誌に注目されたし、僕のドキュメント番組も作られて、順風満帆なスタートでした。

 7年くらいは仕事がかなりありましたが、形勢が一気に変わったのは乙武(洋匡)くんが売れてから! 乙武ブームがきて、全部持っていかれました(笑い)。仕事が一気に減り、そこからが貧乏の始まり。

 芸人になる前は家族が支えてくれたので、ひどい生活をしたことがなかったのに、1日3食カップラーメンの生活が始まり、やがて1日2食のカップ麺になり、最後は1日1食。僕は障害があるから他の芸人のようにバイトができない。家族は心配してくれたけど、もう甘えられないと思ってました。

 お金がなくなって消費者金融に手を出し借金は最高で300万円かな。心のどこかで「もう一回売れりゃ返せるだろう」って気持ちがあったので少しずつ借りてるうちに、増えちゃいましたね。

 家賃滞納で部屋を出され、一回実家に戻り、「もう芸人やめようか」と思いました。僕は身障者芸人ていうことで注目されて売れたから、芸の基礎がない。その時期に初めて「僕がお客に何を投げればウケるんだろう」と真剣に考え、体験を交えたネタとか作り始めました。

■「ここがヘンだよ日本人」との出合いで道が開けた

 その後、「ここがヘンだよ日本人」の障害者を集めた企画に呼ばれて、初めてたけしさんにお会いしたんです。本番の後、たけしさんから「おまえ、どこでやってるんだ?」と話しかけられ、これまでに軍団の方たちと仕事したことをお話ししたら、また番組に呼んでもらえて、今度はネタをやらせてもらえた。たけしさんの前でネタなんて一世一代のことだから、「フルマックスでやろう!」と。そしたらスタジオがウケて、たけしさんが喜んでくれた。

 その時、「俺ってこういう笑いがやりたかったんだ!」とわかりました。

 そのオンエア後、仕事が急に増えたんです。地方営業に呼ばれたり、福祉系の営業も入り、全部受けたら死んじゃうくらいの仕事量になり、借金は1年で完済しました。

 たけしさんとは映画に出させてもらったり、僕がグレート義太夫さんと落語会を始めたら出演してくれて、僕の高座名をつけてくれたり、お付き合いを続けさせていただいてます。

 今は身障者のお笑いも増えて、濱田祐太郎くん(「R―1ぐらんぷり2018」王者)は洗練されてるなぁと思います。僕はどぎついので、マイルドなネタも作って内容をテレビサイズに収めて、前よりも売れたい。もう貧乏生活には戻りたくないので(笑い)。

(聞き手=松野大介)

▽ほーきんぐ・あおやま 1973年12月生まれ。94年、身体障害者(先天性多発性関節拘縮症)として初のお笑いタレントデビュー。近著に「考える障害者」(新潮新書)。落語の高座名は古開院亭大麻。