見つめた現代人の内面、又吉さん見いだす 作家の古井由吉さん死去 

引用元:産経新聞

 18日に亡くなった作家、古井由吉さんは現代人の内面に巣くう孤独や不安を随想のような筆致で描き、日本語による散文表現の可能性を押し広げてきた。終生消えなかったのは幼少期の苛烈な空襲体験。さりげない日常の描写にそんな過去の記憶を織り交ぜ、目の前の平穏さがいかに危うく崩れやすいものであるかを示し続けた。

 「自分が今いる場所は見た目ほど安泰ではない。戦後を生きてきて、この国の変遷には感慨も、悔いもある。そういう歴史の跡を日常に軸足を置いて書いていきたい」。かつてインタビューでそう語っていた。

 戦争末期の昭和20年、東京・品川の生家を空襲で焼け出された。米軍機の爆撃は疎開先の岐阜県にも襲いかかり、猛火の中を逃げ回った。当時、まだ小学校2年生。日常の静寂と隣り合わせに大きな破局が口を開けている現実を、幼くして知らされた。

 転機はブロッホらのドイツ文学を翻訳した大学教員時代。源氏物語のように長く難解な文章にどっぷり浸るうち、自分の奥に潜む古代からの声音を聞いた気がした。言葉があふれ出す。30代での商業誌デビューだった。

 昭和46年の芥川賞受賞作「杳子(ようこ)」では若い男女の愛ともつかぬ危うい関係を描き、東日本大震災を挟んで書き継いだ連作集「蜩(ひぐらし)の声」では、震災後の心情に空襲の記憶を重ね、日常に潜む危機をつづった。「内向の世代」との呼称通り、一貫して見つめたのは等身大の日常を生きる現代人の内面の不可思議さ。でも作品には過去の記憶や太古から変わらぬ自然の息吹、和歌の音律も織り交ざり、時空を超えた豊かな言葉の織物となっていた。

 「内面を徹底して突き詰める。すると個別の人間を超えた自然や過去の歴史とへと開く瞬間がある。人は自分の自由にはならない圧倒的な力に囲まれて生きている」と常々語っていた。

 谷崎潤一郎賞、川端康成文学賞…。権威ある文学賞に輝き、芥川賞の選考にも長く携わった。芥川賞を受けたお笑い芸人、又吉直樹さんの文学的才能をデビュー前から見抜いた慧眼でも知られ、畏敬の念を抱く若手作家も多かった。

 自身は晩年、創作に打ち込むため、あらゆる文学賞の候補を辞退。「(ネット社会の)今は日本語の語彙が少なくなり、言葉が切れ切れになっている」との危機感からか、80代になっても愛用のパイプ片手に艶のある短編を執筆し、毎年のように新刊を出した。書くことが生きること。そんな言葉を地で行く、生涯現役作家でもあった。(海老沢類)