『ブラック・レイン』はいかにして“オオサカ・ノワール”となり得たのか?

引用元:CINEMORE

 1989年に公開された『ブラック・レイン』は、『危険な情事』(87)『告発の行方』(88)などの大ヒット作を生んだスタンリー・R・ジャッフェとシェリー・ランシングのプロデュースによるバディ・アクションだ。ニューヨークの刑事ニック・コンクリン(マイケル・ダグラス)が、偽札の原版を持つ日本のヤクザ・佐藤(松田優作)を追って大阪へと飛び、現地の刑事・松本(高倉健)と組んで死闘を繰り広げていく。

 タイトルは爆発の黒煙が混じって降り注ぐ「黒い雨」を意味し、空襲の隠喩だ。すなわちアメリカが自国の価値観を雨のように日本に降り注がせ、それが佐藤などのネオ・ヤクザを台頭させたという筋書きから、日米の文化的衝突を描き出している。

 そんな本作も、初公開からすでに30年の歳月を経てきた。とはいえ監督のリドリー・スコットは、2019年の今も業界の第一線で活躍するトップディレクターであり、ニックを演じたマイケル・ダグラスもマーベルのスーパーヒーロー映画に加勢するなど、ハリウッドの最前線に身を置いている(アンディ・ガルシアも健在だ)。

 いっぽうで日本側のキャストは、松田優作だけでなく高倉健や神山繁、若山富三郎、そして内田裕也に安岡力也、島木譲二といった多くの主要キャストが故人となり、時代の経過を感じずにはおれない。しかしそういった印象を作品が抱かせないのは、彼らの全力を振り絞ったパフォーマンスと、独自のビジュアルセンスで大阪のランドスケープを切り取った監督の演出が今も色あせていないからだろう。

 本来ならば こうした俳優や監督の功績を顧みるべきだろうが、やや語り尽くされた感があるので、本稿では少し違う部分に目を向けてみたい。

縛りの多かった関西での撮影

 関西一円で物語が展開する『ブラック・レイン』は、ハリウッド映画として本格的な大阪ロケがおこなわれた。しかし企画当初は東京が舞台になっており、ロケ地は成田空港や銀座、そして新宿歌舞伎町などが予定されていた。以下、日本での撮影プランの変遷を検討期間から記していくと、

1988年3月1日
製作のスタンリー・R・ジャッフェや監督のリドリー・スコットらがロケハンのために来日。東京を中心とした撮影候補地を見学するが、どの場所も近代化され、イメージにそぐわないと懸念される。同時に東京はロケ撮影にあたって都警の許可が下りにくく、非協力的な体制も問題視される。

4月24日~25日 
ジャッフェ、スコットらは再び日本を訪れ、今度は大阪を中心にロケハンを敢行。阿倍野署や中之島公会堂、ならびに大阪城や北浜を訪問する。そして大阪の行政管轄は東京ほど複雑でないことから許可が下りやすいと判断し、大阪府に正式な撮影協力を依頼し、岸昌大阪府知事(当時)より全面協力をとりつけている。

 この東京と大阪のロケハンの間、香港での撮影が検討され、ジャッフェとスコットは同地にてロケハンを急いだ。このときに彼らは俳優のジャッキー・チェンと会い、彼の出演を含めた交渉を香港側とするも、ロケ地に関しては検討を要したため、大阪へと行き着いたのである。

 なお、日本国内での撮影は以下のような行程でおこなわれている。

10月28日
日本での撮影を開始。現場は大阪府庁。しかし同府庁舎本館1階の団体交渉室に限られていた撮影エリアを、製作のパラマウントはその周辺を含めた地下1階をすべて占拠し、庁内は機能マヒに陥ってしまう。

11月1日
府庁舎内3階での撮影中、植物性油を気化させスモークを発生させ、刺激臭が充満し庁内が騒然となった。これらに対し大阪府はパラマウントに注意勧告をする。

11月7日
新日本製鉄・堺製鉄所で銃撃シーンの撮影がおこなわれるが、銃火器の使用が厳禁だったために肝心の銃撃シーンはフォンタナ (カリフォルニア州) の製鉄所で撮了されている。

11月11日 夜
大淀区豊崎にある三階建てのゴルフ練習場「ゴルフシティ」で、ニックが菅井(若山富三郎)に謁見を求めるシーンを撮影。

11月13日 
道頓堀にある「プランタンなんば」と「長沼きもの学院・心斎橋校」で、マイケル・ダグラス単独のパートが撮られた。

11月21日~24日 
高松伸デザインによる「戎橋キリンプラザビル」前での撮影がおこなわれる。群衆の混乱を避けるため、深夜の午前3時にエキストラを動員して撮影に臨んだが、大雨を降らせる撮影は府警から許可を得られなかった。加えてニックとチャーリーが暴走族に囲まれるショットを、キリンプラザビルをなめてワンショットで撮る予定も不許可(カメラの設置領域までも細かな制限があった)。そのため暴走族襲撃のシーンは別の日に十三で撮影されることになる(戎橋から一瞬にしてニックとチャーリー(アンディ・ガルシア)が十三を歩いているショットへと飛ぶのは、こうした事情によるもの)。

 他にも道頓堀では、道路に砂を張っての大がかりなカーチェイスも許可が下りず、地下鉄・御堂筋線で撮影される予定だったチャーリー殉死の場面も、アメリカでの撮影を余儀なくされた。

 結局、予定していたアクションシーンはまったくといっていいほど撮ることが出来ず、費用だけが莫大にかかり、予算は製作開始時の2,000万ドルから3,000万ドルへと跳ね上がってしまった。当初の予定では12月下旬まで大阪での撮影をするつもりだったが、パラマウントは同月6日をもって日本パートのロケ撮影を終了する。