“顔面凶器”小沢仁志、昔は撮影所でのケンカも日常茶飯事!一触即発のとき「吉永小百合さんが現れて…」

引用元:テレ朝POST
“顔面凶器”小沢仁志、昔は撮影所でのケンカも日常茶飯事!一触即発のとき「吉永小百合さんが現れて…」

鋭い眼光と低音ボイス、“顔面凶器”と称されるほど迫力ある容姿と圧倒的な存在感で“Vシネマの帝王”として知られている小沢仁志さん。これまでに出演した作品は500本以上で、劇中殺した数は2000人以上。

2019年だけでも40本あまりのVシネマとオリジナルビデオに出演し、俳優としてだけでなく、監督、プロデューサーとしても活躍。バラエティー番組ではコワモテの容姿からは想像もつかない一面も披露。ディズニーランドが大好きで、猫をこよなく愛するというギャップも魅力の小沢仁志さんにインタビュー。 “顔面凶器”小沢仁志、昔は撮影所でのケンカも日常茶飯事!一触即発のとき「吉永小百合さんが現れて…」 「野球選手になって巨人に入りたいと思っていた」時期もあったそう。

◆野球選手になるはずが、映画会社に殴り込み?

子どもの頃は野球選手に憧れていたという小沢さん。高校で野球部に入部したものの、1年で退部になってしまう。

「野球選手になって巨人に入りたいと思っていたんだけど、高校1年で野球部に入ったときに3年生とけんかして退部になっちゃった。でも、当時は落合(博満)が年棒1億取るのが奇跡だって言われた時代だから、今の野球選手みたいには稼げなかったよね」

-そのときはまだ俳優になることは考えてなかったのですか-

「役者というか、どちらかというとスタントみたいなことに興味があって、一度JAC(千葉真一さんが創設したジャパンアクションクラブ)の門をたたいたことがあったんだけど、当時はまだ高校生の枠とかがなくて、卒業したらおいでって言われて。

で、別になろうと思っていたわけじゃないんだけど、いつの間にか、芝居をやる方になっていた。

高校卒業したのが18歳で、ちゃんと事務所に入ってやり始めたのが20歳。だから2年間はいろいろ劇団みたいなところに行ったりね」

-自分で映画会社に売り込みに行っていたというのはその2年間のことですか?-

「そう。事務所を探しに売り込みに行ったの」

-東映本社でトラブルになったこともあったそうですね-

「そう。当時は東映本社の1階に受付がいて、セントラル・アーツ(映画・テレビの制作会社)に入りたかったから、黒澤満(松田優作さん主演作をはじめ、多くの映画を手がけた映画プロデューサー。株式会社セントラル・アーツ代表取締役)さん、お父さんに会いに行きたかったんだよね。(松田)優作さんの映画も作っていたから。

だけど、当然アポなんか取ってないし電撃訪問だから、『関係者じゃない人はお断りします』って言われてガチャガチャやっていたら警備員が来て…。

そのときにたまたまお父さん(黒澤満さん)が通りかかって、『どうした?』って言ったから、俺がその話をしたら、『お前、ちょっと来い』って喫茶店で1時間ちゃんと話を聞いてくれたんだけど、断られた。

それで、映画『ビー・バップ・ハイスクール』のオーディションに行ったとき、お父さんがいて、『あのときのお前か』みたいな感じで(笑)」

-おととし亡くなられましたけど、黒澤満さん本当にあったかくて優しい方でしたね-

「そう、大好き。ずいぶんお世話になってるもん。あれからずっと。ビーバップ以降、ずっとセントラル・アーツに可愛がってもらったし、東映で初めてVシネマの主役をやったのもセントラル・アーツの仕事だった」

-受付でもめていたときに、満さんが通りかかるというのもすごい偶然ですね-

「そうだよね。俺はそういうのが多い。松竹の奥山和由(映画プロデューサー・映画監督)さんだって、映画を見て手紙書いて、全然返事が来ないから、電話して会いに行ったんだよね。

当時の奥山さんはまだ専務でもないから、『俺はこれから山を登ろうとしているところで、自分の荷物でいっぱいいっぱいなのにお前なんか背負えるか。二度と来るな』って言われて、それでもまた次の日にしつこく行ったりしているうちに、いつの間にか、仲良くなって(笑)。

奥山さんはいろいろチャンスをくれようとしたんだけど、俺も当時は生意気だから、『出ろ』って言われても、『いやだ、こんな役』って言って出なかったんだよね。

それで、郷ひろみさん主演の『聖女伝説』は『出ろ。断るんじゃねえ』って言われたから衣装合わせにちゃんと行って、監督の村川(透)さんとけんかして降りて帰って来ちゃったりとか(笑)。

それで『南へ走れ、海の道を!』(1986年)が初めてじゃないかな。あれもいやだって言ったの。

そうしたら『じゃあ、お前は何の役がやりたいんだよ』って聞くから『主役がいい』って言ったら『ばかやろう。お前、この役が気に入らないんだったら、お前が自分で本を書いてきてみろ』って言われて。

で、あまり出すぎず引っ込みすぎずで書いて奥山さんに渡したら、『わかった。これは俺からだって言って監督に渡しておく』って言って、出ることになったの(笑)」

そして1994年、小沢さんは室賀厚監督とともに、クエンティン・タランティーノ監督作『レザボア・ドッグス』をモチーフにしたオリジナルビデオ作品『ザ・ワイルドビート/裏切りの鎮魂歌』に主演。この作品のコメントをもらうために奥山さんのもとを訪ねたことから、同作を基にした映画『SCORE』を製作することに。

「コメントをもらうはずが、奥山さんに監督と俺ごと逆に引っこ抜かれた(笑)。

『ザ・ワイルドビート/裏切りの鎮魂歌』は500万円で作ったんだけど、『SCORE』の予算は3000万円。

1億5000万円ぐらいで映画を作っている時代に3000万円。映画でいうと安いって思うんだけど、俺らは500万でやっていたわけだから6倍じゃん。食いついたよね、思いっきり(笑)」

小沢さんが初めてプロデュ-スも兼ねて主演した映画『SCORE』は、室賀厚監督が第50回毎日映画コンクールのスポニチグランプリ新人賞を受賞。第17回ヨコハマ映画祭で、室賀厚監督が新人監督賞、『SCORE』軍団こと出演俳優陣が審査員特別賞を受賞した。

※小沢仁志プロフィル
1962年6月19日生まれ。東京都出身。1983年、『太陽にほえろ!』(日本テレビ系)で俳優デビュー。1984年、『スクール☆ウォ-ズ』(TBS系)に水原亮役で出演。映画『ビー・バップ・ハイスクール』シリーズ、映画『SCORE』、映画『3-4×10月』など多くの映画に出演。

1997年、『殺し屋&嘘つき娘』で映画監督デビューを果たし、監督・主演をつとめた『SCORE2 THE BIG FIGHT』(1999年)からは監督名をOZAWA名義に。『制覇』、『日本統一』をはじめ、数多くのオリジナルビデオシリーズを持ち、スタントマンをほとんど使わないアクション俳優としても知られている。