中森明菜、当日に突然の取材拒否!?「矢沢永吉さんだったらこんな企画受けない」 大人だからとこびず、曖昧を嫌っていた

引用元:夕刊フジ

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 「上司だった寺林(晁)さんから中森明菜の宣伝を担当しろといわれたときは正直言って驚きましたね」

 1981年の年末も押し迫っていた。ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)の邦楽宣伝課に所属していた富岡信夫(現モモアンドグレープカンパニー代表取締役)氏は、そう振り返った。

 「(明菜と)最初にあったとき、尊敬する芸能人は誰かと聞いたら矢沢永吉と桃井かおりとキッパリ答えたんです。まだ16歳なのに…って思いましたよ。実は当時、矢沢はワーナーに移籍してきたばかりで寺林さんが宣伝を担当し、私もワーナーの前は渡辺プロダクションの関連会社で桃井のマネジャーだったので、何となく明菜に親近感というか、感性に興味を抱いたのは確かです」

 82年に入り、本格的にプロモーション戦略が話し合われた。富岡は「どうやって売り出したらいいか悩んだ」という。

 すでに小泉今日子(53)や堀ちえみ(52)、早見優(53)、松本伊代(54)、石川秀美(53)ら同期となるアイドルは月刊や週刊の芸能誌グラビアを完全に押さえ露出を増やしていた。

 しかし、明菜は…。

 「デビューどころか、メディア露出も完全に後れをとっていました。それは焦りましたよ」

 遅れを何とか巻き返そうと富岡は各出版社の編集担当者を連日訪ねた。

 「ワーナーは『瀬戸の花嫁』でデビューした小柳ルミ子以来の“超大型新人”として強力プッシュしたのですが、編集担当者の反応は鈍かった。もちろんデビュー前なのでテレビは仕方ないとして、当時は『平凡』や『明星』といった芸能誌やアイドル誌があふれていましたが、明菜は新人では6番目ぐらいだったかも。極端にいうと他の新人はカラーで2、明菜はモノクロ1ページ。2分の1ページなんてこともありました。理由を聞くと『他に扱う新人が多いから仕方がない』と言われたりして」

 プロモーションで走り回る富岡を明菜は目の当たりにしていた。こんなことがあった。

 月刊の某芸能誌が「明菜の部屋を紹介する」というコーナーを組んでくれることになった。もちろん撮影場所は実際の明菜の部屋ではないが、当日になって「取材はイヤだ」と言い出した。

 「どうにかならないのか!」

 編集スタッフから連絡を受けた富岡は慌てて現場に向かい、理由を聞くと「何でこんな企画の取材を受けなければならないのか分からない。もし矢沢(永吉)さんだったら受けないでしょ」と言い出したという。

 結局、デビュー前の新人であることや、芸能誌の大切さなどを説明すると「分かりました。すみませんでした」と納得し、その後は素直に取材を受けた。

 「彼女を生意気という人もいますが、そうではない。単に大人だからといってこびないし、曖昧なことは嫌っていましたからね。ちゃんと説明すれば理解してくれました。普段は礼儀もいいし、彼女の場合は向き合い方の問題なのです」

 富岡は、プロモーション方法を変え、各地のワーナー営業所回りに力を入れることにした。

 「地方の営業所を回ると同時にファンとの交流を図ろうと思ったのです。そのため各営業所のプロモーション担当者に1人ずつ手紙を書きました。いくら会社の強力新人といっても他にもアーティストがいるので、簡単には動いてくれない。ちゃんと明菜を理解してもらわないとダメ。演歌的なプロモーションで行こうと心を決めシフトを変えました。AKB48が『会いに行けるアイドル』なんてキャッチフレーズでデビューしましたが、実は明菜の場合もそんな感じでしたね」

 その結果、名古屋や札幌でのキャンペーンではデビュー前にも関わらず多くのファンが殺到。たまたま同行したワーナーの山本徳源社長も「これは、イケる!」と確信したという。(芸能ジャーナリスト・渡邉裕二)

 ■中森明菜(なかもり・あきな) 1965年7月13日生まれ、54歳。東京都出身。81年、日本テレビ系のオーディション番組「スター誕生!」で合格し、82年5月1日、シングル「スローモーション」でデビュー。「少女A」「禁区」「北ウイング」「飾りじゃないのよ涙は」「DESIRE-情熱-」などヒット曲多数。

 NHK紅白歌合戦には8回出場。85、86年には2年連続で日本レコード大賞を受賞している。