“脱・説明過多”大友啓史監督の映画づくり「感覚や肌触りを作品に反映」

引用元:オリコン
“脱・説明過多”大友啓史監督の映画づくり「感覚や肌触りを作品に反映」

■「Film makers(映画と人 これまで、そして、これから)」第34回 大友啓史監督

【写真】松田龍平と綾野剛を絶賛した大友啓史監督

 土曜ドラマ『ハゲタカ』や大河ドラマ『龍馬伝』などNHKに在籍中から、独特の映像手法で大きな注目を集めてきた大友啓史監督。NHK退局後も『るろうに剣心』シリーズや、『ミュージアム』、『3月のライオン』など話題作映画を次々と世に送り出し、いまもっとも次回作が注目される映画監督の一人と言っても過言ではないだろう。そんな大友監督が自身の原点に戻り、いまの日本映画業界の流れに逆行するような挑戦的な映画『影裏』を完成させた――。

■行間に潜む“人生の不確かさ”を探り当てる

 原作は、第157回芥川賞を受賞した沼田真佑氏のデビュー小説。96ページという短い作品だが、大友監督は読んだ瞬間、映像化したいと強い思いが胸に去来したという。

 「いまの世の中、いろいろな意味で説明的なものが支持される傾向が強く、作り手の解釈に委ねてくれるようなものは減ってきました。そんななか『影裏』という作品は、登場人物についても劇中起きる出来事についても、きわめて説明的な描写が少なく、一語一語吟味することによって、行間に潜んでいるものがあぶり出されてくる、一片の詩のような作品だと思いました。もともと学生時代は、エンターテインメントとは対極にある“分からないから面白い”というような大人の映画を、背伸びするかのように好んで観ていた時期もありました。原作を読んだとき、そのころの自分の嗜好と近い肌触りを感じ、今だからこそ、こういう作品を手掛けてみたいと思ったんです」。

 説明過多な世の中。分かりやすいことがヒットの法則となり、多くの作品はより単純化されたエンターテインメントに偏りを見せている。そんななか『影裏』では登場人物の背景を含め、非常に多くの余白があり、見ている人間によって物語の解釈は大きく変わる。非常に野心的な作品だ。また過去の作品では、脚本に大友監督の名前があるのだが、本作ではクレジットされていない。

 「あまり自分の掌中に収めたくないというか。原作自体が、“人生の不確定さ”に踏み込んだ作品ですから、分からないものに、敢えて分からないまま向き合うという、ある種ドキュメンタリー的なアプローチが活きると思ったんですね。脚本で手を動かせば、そこで一つ自分の解釈が固定してしまう。今回は僕の故郷でもある盛岡の物語ですが、澤井(香織)さんの書いた脚本を航路図として故郷と対峙し、現場でさまざまな状況と交信し、一つ一つ解釈を発見しながら、それを深く深く作品の奥に忍ばせるように取り組みたかったんですね。言葉を一つ一つ解きほぐしながら、原作を楽しんで読んだようにね。NHK時代にドキュメンタリーも撮っていたのですが、そのときも一応台本は作っていましたが、現場に入ると現実は全然違うことが多かった。そのような感覚や肌触りを少しでも作品に反映することが、今回の挑戦の一つであったように思います」。

 大友監督がNHKに入局したとき、ある尊敬する先輩から「声にならない人の声を届ける」ことこそがドキュメンタリーであり、ジャーナリズムの仕事だと教わった。その教えは、今でも胸に刻まれている。その意味では、本作で綾野剛演じる今野秋一も、松田龍平扮する日浅典博も「究極的には声にならない人」であり、その声を丁寧に拾い上げることを、強く意識したという。「秋田放送局にいたころ、僕は、日々の自分の人生を粛々と生きている、魅力的な人たちにたくさん出会いました。その土地に生まれ、そこで生きることを宿命として受け入れながら、社会に対し、愛する人に対したくさんの思いを抱え、その声を大声で叫ぶこともなく、ひっそりと生きていた無名の人たち。この二人もそんなところがあると思ったんですね」。

 だからこそ、大友監督は原作を映画化する際、ドキュメンタリーの手法で物語を紡ぐことができる、原点に戻れるという確信があったという。一方で「こういう人たちの物語を作るとき、どこか映画だからスペシャルなものにしようとか、キャラクターの輪郭をはっきりさせ、取り上げるに足る人を作ろうとか、そういうセオリーの誘惑に安易に乗ってしまう。そうなってはこの作品の意味が薄れてしまう。余計なことを考えず、最低限のサービスで映画を成り立たせるためにはどうしたらいいんだろうと考えると、興行結果をいつも問われてきた自分自身の手あかのついた発想からスタートするのはつまらないと思い、脚本を別の人に委ねたんですね」。