デニス・ホッパー マルチに自己鍛錬を重ね、革命世代のヒーローに

引用元:夕刊フジ

 【はみだしバッドボーイズ】

 1970年1月31日、日本で公開された「イージー・ライダー」はロック、ヒッピーブームを日本のみならず世界の若者に伝えた。あれから50年。あのとき映画やテレビ、ジャーナリズム、文学、マスコミで時代をロックした70’Sのならず者を紹介しよう。

 ジェームス・ディーンと「理由なき反抗」「ジャイアンツ」らで共演して注目されるも、生意気な悪童のレッテルを貼られたデニス・ホッパー。一度はハリウッドを追放されたが、アンディ・ウォーホールやマイルス・デイヴィスといった“ビートニクス”の自由な表現に触発され、演技術を磨く一方、写真、絵画、彫刻とマルチに自己鍛錬を重ねていた。

 旧態依然の大作主義で大衆と乖離(かいり)していたハリウッド映画界に、ホッパーがほうりこんだ爆弾が「イージー・ライダー」だった。

 主人公は西部劇ヒーローを思わせるワイアットとビリーという2人。ハリウッドの名優を父に持つピーター・フォンダのクレジットカードでロスからニューオリンズまでロケ隊経費をまかないながら撮られた低予算ロード・ムービー。ハリウッドではタブーだった薬物やヒッピーを正面から捉えた作品はカウンターカルチャー世代の試金石と呼ばれて大ヒット。ホッパー、フォンダは革命世代のヒーローとなった。

 だが79年『地獄の黙示録』に出演したホッパーは重度の麻薬中毒でせりふが覚えられず、コッポラ監督を嘆かせた。

 しかし、「でも、あいつはどんな体験も芸のこやしにするんだ」というジャック・ニコルソンの言葉通り、86年、デヴィッド・リンチ監督の「ブルー・ベルベット」で麻薬中毒体験を生かして怪演。アル中のバスケット・コーチを演じた「勝利への旅立ち」とともにアカデミー助演賞にノミネートされて完全復帰。

 彼がいなければ、ジム・ジャームッシュもヴィム・ベンダースもクエンティン・タランティーノもなかっただろう。そんな彼も没後10年。2月1日から監督・脚本・主演したドキュメント映画「アメリカン・ドリーマー」が上映される。

 この50年間「イージー・ライダー」の衝撃のラスト・シーンが盟友ジェームス・ディーンの早すぎる事故死へのオマージュだったと指摘する人が皆無なのはどういうわけだ。(ロックランナー・室矢憲治)

 「イージー・ライダー」の公開50周年を記念して、デニス・ホッパーが監督・脚本・主演を務めたドキュメント映画「アメリカン・ドリーマー」が2月1日から、東京・渋谷のユーロスペースで「イージー・ライダー」とともに上映される。29日まで。問い合わせはユーロスペース(03・3461・0211)。