「いつまでもこのような芸術は残してほしい」 来日の度に観劇…チャップリンと歌舞伎は“相思相愛” 秘話開封・歌舞伎とチャップリン

引用元:夕刊フジ

 【秘話開封 歌舞伎とチャップリン】

 『ライムライト』の世界初の舞台化を、チャップリン家が日本だけに認めたのも、チャップリン本人の日本演劇好きのおかげかもしれない。

 日本人秘書の高野虎市を通して日本に興味を持ったチャップリンは、ハリウッドを訪れた歌舞伎一座と交友を持った。

 世界旅行の一環として訪れた初来日では5・15事件の標的にされ、すんでのところで命拾いしながらも伝統芸能を大いに楽しんだ。凝り性の喜劇王は歌舞伎をすでに研究しており、忠臣蔵の筋書きを周囲に説明するほどだったという。七代目松本幸四郎の渡辺綱、六代目尾上菊五郎の伯母真柴の『茨木』と忠臣蔵を見て楽屋を訪ね、お軽を演じた中村福助の女形のこしらえを興味深く観察し、菊五郎と斧定九郎を演じた初代中村吉右衛門と固く握手をした。

 歌舞伎俳優が何十年もかけて大成すると聞き、自身も5歳で初舞台を踏んで芸を鍛え上げたチャップリンは「あらゆる芸術はそうでなくてはいけない」と共感。七代目幸四郎と二代目市川猿之助の連獅子を見て、「2人はよく呼吸があい、リズムに乗っている。踊りは幸四郎のほうがうまいが、猿之助は意気があってアクロバティックだ。歌舞伎舞踊の良いのは腰から上のポーズだ」と述べたというから、なかなかの見巧者だ。

 2度目の来日は1936年3月。忠臣蔵の塩谷判官の切腹を見て、十五代目市村羽左衛門に「君は僕を泣かせたよ」と感動を伝えると、7年前にハリウッドで喜劇王に会っていた羽左衛門は得意の英語で答えた。

 最後の来日となった61年には、歌舞伎座で山口淑子と一緒に十七代目中村勘三郎主演の喜劇を見た。間男をめぐる他愛ないコメディーに、チャップリンが「悲しい、悲しい」といい続けたのが山口は強く印象に残った。

 最後に見た歌舞伎は東横ホールでの「義経千本桜」の「鮨屋」の段。舞台上の澤村由次郎(現在の澤村田之助)によると「じっとにらむように」舞台を見ていたという。主演の坂東鶴之助(五代目中村富十郎)に女形の美しさについて感動を伝え、四代目中村時蔵には「いつまでもこのような芸術は残してほしい」と言い残した。

 かように歌舞伎を愛したチャップリン。実は歌舞伎も、チャップリンを深く愛していた。なんと代表作の『街の灯』が戦前に歌舞伎になっていたのだ。

 ■大野裕之(おおの・ひろゆき) 脚本家、演出家。1974年、大阪府生まれ。京都大学在学中に劇団「とっても便利」を旗揚げ。日本チャップリン協会会長。脚本・プロデュースを担当した映画に『太秦ライムライト』(第18回ファンタジア国際映画祭最優秀作品賞)、『葬式の名人』。主著に『チャップリンとヒトラー メディアとイメージの世界大戦』(岩波書店)など。