キューブリック=究極の映画オタク! 「2001年宇宙の旅」展示会がNYで開催

引用元:映画.com
キューブリック=究極の映画オタク! 「2001年宇宙の旅」展示会がNYで開催

 [映画.com ニュース]スタンリー・キューブリック監督作「2001年宇宙の旅」をテーマとした展示会「Envisioning 2001:Stranley Kubricki’s Space Odyssey」が、このほどニューヨークの映像博物館で開催され、キューブリック監督の娘カタリーナ・キューブリック、同博物館キュレーターのバーバラ・ミラーがトークに臨んだ。(取材・文・細木信宏/Nobuhiro Hosoki)

 同展示会は、フランクフルトのドイツ映画博物館、ロンドン芸術大学のスタンリー・キュブリック・アーカイブ、ワーナー・ブラザースの協力を得て開催されたもの。会場では、キューブリック監督が参考にした映画「月世界征服(1950)」「禁断の惑星」「プラン9・フロム・アウタースペース」の視聴コーナー、アーサー・C・クラークとの写真や彼に向けた手紙、アメリカ空軍への質問、MGMのプレスリリース、脚本の草稿がずらり。“ヒトザル”の衣装やHAL 9000、絵コンテ、衣装のデザイン画、実際に使用された宇宙服も展示され、“キューブリックの思考”を垣間見たような気分にさせられた。

 「2001年宇宙の旅」は、「ニューヨークが原点となった映画」と説明するミラー。「当時、ニューヨークに住んでいたスタンリーは、スリランカに住んでいた原作者のアーサー・C・クラークと連絡をとり、映画のアイデアを語り合ったの。それから、後にスタンリーの制作会社『ホーク・フィルムズ』の副社長となるロジャー・カラスらとともに“新たなSF映画”を企画していきました。やがて、64年の5月から企画が本格的に立ち上がり、約1年間をかけてストーリー構成に専念しました。アーサーはチェルシーホテルで小説版を執筆し、スタンリーと一緒に、セントラルパーク西部にあるプロダクション・オフィスで構想を練っていたわ」とバックグラウンドが紹介された。また、キューブリック監督は、60年代にニューヨークで上映されていた宇宙関係の映画に興味を示していた。

 ミラー「64年、ロサンゼルスを拠点としたグラフィック・フィルムズという会社の映画『To the Moon and Beyond』が、ニューヨークのワールドフェアで披露されました。スタンリーは、(同作の)宇宙の描写に感動したの。グラフィック・フィルムズは、もともとNASAのために撮影を行っていた会社で、これまでのSF映画とは、かなり異なったアプローチをしていたんです。スタンリーは、グラフィック・フィルムズに連絡し、彼らに『2001年宇宙の旅』のコンセプト・アートを手掛けさせました。(SFXスーパーバイザーの)ダグラス・トランブルもここで働いていて、いつしか彼が直接スタンリーとロンドンで働くことになっていったんです」

 「2001年宇宙の旅」が不朽の名作となっていく過程を、撮影現場で目撃していたカタリーナ。「ロンドンにやってきたのが、64年。映画の会合が開かれるまで、私たち家族はしばらくホテルで暮らしていました。やがて、スタジオが近くにあるボアハムウッドの家に住み始め、セットに通うようになったの。あの映画の美術部門は、まるで巨大な芸術大学のようでした。ダグラス・トランブル、コン・ペダースンらは、スタンリーから自由を与えられ、今までの映画では“見たことのない何か”を考え出していったわ」と振り返り、現在でも高い評価を得ている理由を述べた。

 カタリーナ「あの映画は『何を考えるべきか』『あなたとは誰なのか』『どうやってあの映画を受け入れれば良いか』ということを教えてくれないからです。手作りの映画であり、未知のことを扱った極めてまれな作品。スタンリーの“不可知の存在への敬意”だと思っています。彼は、それを観客に感じ取って欲しかったと思うの。観客にどのように考えれば良いかという説明はしなかったし、一度もエンディングの解説もしなかった。それを行うことは、観客のイマジネーションを奪ってしまう行為です。誰もが、他の人と異なったものを、あの映画から見出しているはず」

 第71回カンヌ国際映画祭では、クリストファー・ノーラン監督が監修を務めた70ミリフィルム版が上映された。カタリーナは「(作業の過程を)ノーランがまるでオタクのようにハマっていく姿が微笑ましかった」という。「それはまるで14歳の私が『2001年宇宙の旅』をロウズ・シアターで初めて鑑賞した時(68年)のようだった。当時、私を含めた3人の娘たちは、最前列に座っていました。満席の室内にいたのは、様々な宝石を付け、異なるヘアスタイルをした人々。ほとんどの人は(内容を)理解できず、席を立っていきましたね。後ろの方の席に座っていたスタンリーは、がっかりしていたようです。でも、私たちは『これがずっと手掛けていた映画なのか!』と驚かされ、お気に入りの作品になったの。“新たな体験”をすることに寛容な人たちも、気に入っていた。特に若者たちが評価し、今でも多くの人が語り継いでくれています」と語った。

 かつて、コメディ集団「モンティ・パイソン」が同作をパロディ化。さらにエルビス・プレスリーが劇中楽曲をコンサートで使用していたが、キューブリック監督はこのことを容認していたのだろうか。

 カタリーナ「スタンリーは、ある意味、究極の映画オタクよ。長年“映画の生徒”でもあったから、どんな映画でも見ていました。写真雑誌『ルック』で働いていた頃から、アート系映画を近代美術館で見ていましたし、彼は多くの作品から影響を受けていたの。それに“スタンリー・キューブリック”として名を馳せてからは、気に入った作品の監督を呼びつけて、知恵を借りようとしていました。だから、誰かが自分の映画に影響を受けて“新しいこと”をやろうしていたら、スタンリーはとてもハッピーになっていたわ。実は『2001年宇宙の旅』が公開され、自分の元に届いたファンの手紙を、彼は全部集めてました。特に気に入っていたのは、24枚にも及ぶ映画の解釈を記した手紙でした」