「君が代」と「唱歌」と「明治頌」 ニッポンの音楽教育150年間のナゾ・大谷能生

引用元:夕刊フジ

 【ニッポンの音楽教育150年間のナゾ 大谷能生】

 例えば、卒業式の鉄板ソング「仰げば尊し」。これは、現在では、すでにウィキペディアにもその由来が記載されてありますが、長らくその原曲というか、この曲が作られるにあたっての経緯は不明な楽曲でした。初期の唱歌にはそう言ったものも多くて、長らく歌い継がれているにも関わらず、つい最近まで「出所不明」だったものが多数存在しています。

 で、調査によって判明した原曲の歌詞を読んでみると、「仰げば尊し」の元ネタは、<私たちは今日別れ、まためぐり逢う、きっと、神が私たちをその御下へ招く時に。そしてこの部屋から私たちは歩み出て、自らの足で一人さまよう。幼年期から今日までを共にした友は、生き続けるだろう、過去の中で。しかし、光と愛の御国で、最後には皆と再会できるだろう。>という、はっきりバリバリのキリスト教ソングなのですね。

 メーソンは音楽取調掛に赴任してきた当初、これらの「唱歌」を「日本語」に翻訳することなく、そのまんま、英詞のママで教育することを提案していたそうです。この話、一瞬驚きますが、しかし、よく考えてみれば、「西洋音楽」という異国の文化を教えるならば、中途半端に翻訳などせずに、そっくりそのまま、初めから原語でもって教える方が速いし正確であるーー。例えば、イタリア音楽とかだったら、特に歌曲をやりたいんだったら初めからイタリア語で勉強した方が、最終的には絶対にラクなんでは、と、専門教育が普通になった今だったら思いますよね。あと、理系の分野では(数学とか医療とか工学とか)明治に原語のままで導入して普及してそのまま使っている用語や概念も多いのではないでしょうか。

 日本の子供たちに、公教育の一環として、「唱歌」を「英語」で教え、唄わせることーー。明治初頭に成立した学校教育において、このような選択がもしおこなわれていたとするならば、ぼくたちの音楽の風景は、現在とはおそらくまったく異なったものになっていたことでしょう。安田寛氏らによって調査された記録から判断する限り、アメリカ初頭音楽教育法の大家であったメーソンには、実際にそうした意志があったものと思われます。

 しかし、それは明治期の、伊沢修二らに代表される多くの官僚にとっては完全にNGな話でした。特に、井沢らが初めの唱歌集の制作に入った明治十年代中頃は、開国から続く急速な「欧化主義」を危険視する、いわゆる「復古派」の勢いが強くなっていた時期でした。井沢が最初の唱歌集を出版した明治十五年には、井沢らがいた文部省とは無関係なかたちで、宮内省を中心にしてまとめられた幼児教育用の道徳パンフレット「幼学綱要」が出版されます。

 この「幼学綱要」は、儒教主義と皇国思想をミックスさせた、のちの「教育勅語」に引き継がれてゆくような内容のものであり、この当時の、欧化・啓蒙・近代化を推し進めていた文部省の姿勢とは真っ向から対立するようなものでした。当然、文部省はこれに反発。国民教育を巡るこの二つの省庁の対立は、近代化推進のエースである森有礼が文部大臣に就任する明治十八年前後にピークを迎えます。詳しくは端折りますが、クリスチャンでもあった森は、明治二十二年の大日本帝国憲法発布の当日に暗殺されます。

 井沢らが「唱歌」の定礎をおこなおうとしていた明治十年半ばは、このように、復古派と開明派とが、これからの国の方向性を巡って争う、実に微妙な政局のなかにありました。そんな情勢にあって、「アメリカから呼んできた外国人教師」が、学校教育での音楽の歌唱は「讃美歌を元にした楽曲を使って、英語でおこなう」と言っている、という話は、それがたとえ「そんな話もある」といったゴシップ・レベルのものだったとしても、関係者の進退伺にまで発展し、これまで井沢らが進めてきた近代的な唱歌政策を根本からオジャンにしかねない、とても危険なトピックだったのではないかと思われます。

 先述しましたが、文部省は「音楽」を取り扱う組織としては後発組です。彼らが「音楽取調掛」を設置した時には、すでに宮内省は雅楽家たちに、雅楽のサウンドとシステムに基づいた「保育唱歌」を制作させていました。その雅楽課と海軍軍楽隊とが手を組んで作ったニューヴァージョンの「君が代」は、そろそろ祭儀の場において公式に演奏されはじめているところです。

 この二つの「新しい明治の歌」は、しかし、井沢らが幼児教育で実現させたかった「音楽」の在り方とは、つまり、彼がメーソンから教わって、「こういうものが日本でも必要」、そして、「これなら日本でも普及させられる」と思った「歌」とは、そのサウンドの在り方が若干異なっていた。井沢らは、これら先人の業績をうまく援用しながら、自分たちの「音楽」を国政のメイン・ストリームに合流させようと努力します。

 文部省によるメーソンの、二年間という短期間での早急な解雇と帰国には、おそらく、このような、明治の「政治」と「歌」を巡る極めて複雑な事情が反映しているのでした。

 ■大谷能生(おおたに よしお) 音楽と批評。ミュージシャンとしてジャズを中心に、さまざまなバンドやセッションで活動。著作としては『平成日本の音楽の教科書』、『ジャズと自由は手をとって(地獄に)行く』、『東京大学のアルバート・アイラー』(菊地成孔との共著)、『日本ジャズの誕生』(瀬川昌久との共著)、『身体と言葉』(山縣太一との共著)など多数。