志村さん「家族みんなで楽しめる番組が理想」、コント作り1日15本がノルマ

 お笑い界の重鎮、志村けん(本名・志村康徳=やすのり)さんが29日午後11時10分、新型コロナウイルス肺炎のため、東京都内の病院で死去したことが30日、発表された。

 数々の伝説的なギャグを生み出し、世代を超えて誰からも愛された志村さん。中学生で芸人を志し、高校時代に「この道以外考えられない」と決心。卒業直前の1968年2月、ドリフターズのリーダー、いかりや長介さん宅へ押しかけ、弟子入り志願した。

 門前払いされたが、それでも食い下がった根性をかわれ、加藤茶の付き人に。入念なリハーサルを積んで生放送に臨むTBS系バラエティー「8時だョ!全員集合」を毎週、舞台袖で勉強し、このときコントの神髄を徹底的にたたき込まれた。

 メンバー見習いとして番組にもたびたび登場するようになり、74年、脱退した荒井注さんに代わって正式メンバーに昇格。しかし、ネタはほとんどうけなかった。

 才能が開花したのは2年後の76年。人気コーナー「少年少女合唱隊」で歌った東村山音頭で人気が爆発。79年には加藤とのコンビで披露したヒゲダンス、80年には童謡の替え歌♪カラスの勝手でしょ~など、次々とギャグを生み出す。

 85年の「全員集合」終了後も「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」「志村けんのだいじょうぶだぁ」「志村けんのバカ殿様」と冠番組が次々ヒット。変なおじさん、バカ殿様などのキャラクターを生み出し、「だっふんだ」「アイーン」などのギャグが子供たちに大人気となった。

 87年のインタビューで志村は「子供用のギャグは一度だって作ったことがない。体を使ったコントだから子供に分かりやすかった。家族みんなで楽しめる番組が理想なんだ」などとコントへのこだわりを告白している。

 当時はコントのネタを1日15本考えるのがノルマ。44年間、お笑い界の第一線で活躍し続けた裏には、そんな地道な努力と信念があったからこそだった。

 私生活は、テレビで見せる顔とは対照的に寡黙でシャイ。付き人時代を知る人物は「口数が少なく、おとなしい子だった」と振り返る。お酒が大好きで、毎日のように夜の街へ繰り出し、後輩芸人や仲間と飲んでいた。一晩で3軒はしごし、100万円使ったことも。ただ、どんちゃん騒ぎするのではなく静かに飲むタイプで、後輩に熱くコント論を話すこともあったという。

 最近番組でも告白した大滝裕子(57)をはじめ、数多くの女性と浮名を流したが、生涯独身を貫いた。ある芸能関係者は「結婚していたら、今回のようなことは防げたのでは」と悔やんだ。