【ネタバレコラム】分岐のない物語がゲームとして表現される必然性――『十三機兵防衛圏』が優れたアドベンチャーゲームである理由とは

引用元:IGN JAPAN
【ネタバレコラム】分岐のない物語がゲームとして表現される必然性――『十三機兵防衛圏』が優れたアドベンチャーゲームである理由とは

アドベンチャーゲームはこれまで、プレイヤーに選択肢を提供することによって、自らがビデオゲームである正当性を担保してきた。『ポートピア連続殺人事件』であなたは持ち前の推理力によって犯人を裁き(あるいはGoogleで予測変換で得られる知識か)、『ときめきメモリアル』では努力と忍耐によって好みの女の子を射止めてきた。なぜ”小説”や”映画”ではなく、”ゲーム”でその物語を語らう必要があるのか。アドベンチャーゲームはプレイヤーに選択を与えることで、その質問に答え続けてきた。
もちろんグッド・エンディング、バッド・エンディングのように、エンディング自体に優劣をつけることで物語に明確な正史を取り決めることもある。また、『ひぐらしのなく頃に』のように選択肢が用意されないものも存在するが、こういった作品ももれなく―――プレイし続けるという選択でもって―――複数のエンディングのうちプレイヤーが納得の行く世界線を選び取ることができた。

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正当性の担保がなされていないアドベンチャーゲーム
では『十三機兵防衛圏』はどうか? 読者もお気づきの通り、本作は既存のアドベンチャーゲームの形式を大きく逸脱している。描かれるストーリーは唯一の明確なエンディングに向かって突き進み、物語を分岐させる選択肢も用意されていない。各章こそENDという形で区切られているが、なにか話にオチがつくわけでもなく順に物語が進行していく。クラウドシンクというゲーム的なシステムが一応は用意はされているものの、常に選ぶべき答えは決まっており、プレイヤーの操作が展開に影響を及ぼすわけではないのだ。

つまり、本作は(ノベルゲームのような例を別にすれば)アドベンチャーゲームとして、従来どおりの正当性の担保を行っていない。であれば、本作がビデオゲームである意味が見えなくなってくる。本作の体験はどちらかといえば、複数の主人公によって成り立つ群像劇小説を読んでいる感覚に親しいし、物語を美しくきめ細やかなイラストとともに語るのであれば、グラフィック・ノベルなどでも表現は十分に可能だったはずだ。
身も蓋もないことだが、もちろんヴァニラウェアがゲーム開発会社だからということも、本作がビデオゲームである理由の一つにはなる。ただし、それだけでもないだろう。『ドラゴンズクラウン・プロ』の先着購入特典DLCでは、彼らはデジタルゲームブックという新たな表現を行ってみせたし、これまで得意としてきたジャンルはむしろアクションゲームだったはずだ。ヴァニラウェアは世界観を最適な方法で私達に伝えることに成功し続けてきたからこそ、時代に取り残されなかった。

ここからは筆者の推測に過ぎないが、本作がゲームという表現技法に頼った理由とは、おそらくこの空想を現実世界に成立させるために必要不可欠だったからではないかと思う。なぜなら―――ここからはネタバレを伴うが―――それは本作の時間に対する曖昧さに由来している。本作では中盤以降、描かれる複数の時代が時系列に従って直列に繋がれているのではなく、異なる空間として並列に存在していることが明示される。与えられた年号に順序の意味はなく、ただのルームナンバーに過ぎなかったというわけだ。
現実世界の時間と、本作の時間の意味にはこのように若干のズレがある。思うに、この時間感覚の差を現実世界に翻訳するために、すなわち、この空想を現実世界に形作るためには、ビデオゲームという表現形式がうってつけだったのではないだろうか。むしろ裏を返せば、本や映像などは不適切ともいえる。

考えてもみてほしい、本や映像には必ず抗いようのない時系列が存在している 。 グラフィック・ノベルのような書籍の形式をとれば、そこには物理的に読み始めと読み終わりがあり続ける 。 再生時間0:00から再生終了までひとつづきに物語が進行し続ける映像作品でも同様だ 。 これは複数の時代が並行に存在していたという本作最大のメカニズムを語る上で、非常に都合が悪い 。 特徴的な本作の世界観が、現実世界の物理的な時系列と噛み合わないものになってしまうからだ 。 対してビデオゲームはどうだろうか 。 おそらくこの世で最も、時間の始まりと終わりが曖昧になっているメディアといえるだろう 。