【あの時・日本レコード大賞<13>】細川たかし「矢切の渡し」何でB面なんだ!?

引用元:スポーツ報知
【あの時・日本レコード大賞<13>】細川たかし「矢切の渡し」何でB面なんだ!?

◆細川たかし(75年最優秀新人賞、82・83年大賞)後編

 “大みそかはレコ大と紅白”がお茶の間の定番だった。1959年にスタートした日本歌謡界最大の音楽イベント「日本レコード大賞」が今年、令和に入って第1回目となる。12組の歌手や作家が当時を振り返る。(この連載は2018年12月にスポーツ報知掲載の復刻)
 ※「第61回日本レコード大賞」は12月30日午後5時半からTBS系で放送される。

 82年「北酒場」は3月に発売されると大ヒットし、レコ大を受賞した。手応えは感じていたという。

 「大本命で取れると思っていました。司会は高橋圭三さんと竹下景子ちゃんで名前を呼ばれた時には感動しましたし、これで一生食えると思った(笑い)。ジュリー(沢田研二)や五木(ひろし)さん、それに(松田)聖子ちゃんや俊ちゃん(田原俊彦)らがいて華やかでしたね」

 翌年「矢切の渡し」で2年連続の大賞を受賞するが、意外な選曲だったという。

 「周防(郁雄)社長が見つけてきて『これ歌え』って。ちあきなおみさんの『酒場川』(76年)のB面で作詩・石本美由起、作曲・船村徹先生。大御所の作品のカバーですよ。もうオケも取ってあって社長が『たかし、軽く歌っておけ。あんまりガンガン歌わなくて鼻歌の感じで』って。それが大ヒットするワケですよ。俺もひょっとするとは思っていなかった。恐ろしい話でしょ、歌って。でも聴けば聴くほどいい歌なんですよ。何でB面なんだろうと思いました。ちあきさんが出して数年後ですよ。俺が歌わなかったら世に出てこない名曲でしょ」

 「矢切の渡し」は細川の他に10組が歌う競作としてトータルで300万枚のセールスを記録した。

 「俺の作品で最高セールスはこれです。120、130万枚でしょうか。2月に出してゴールデンウィークに葛飾柴又でイベントをやった時には荒川の土手に1万5000人並びました。“渡し”といっても川が狭くて向こう岸が見えるんですよ(笑い)。それがだんだん社会現象になってきて、夏過ぎぐらいには、じいさん、ばあさんが歌うようになった。初めは社長もレコ大をやる気はなかったけど、周囲から『売れているし、2年連続取っても文句なしだよね』って声が上がってきて本気になりました。『歌謡大賞はいらない。レコ大1本だ』って」

 ―本番では本命だった。

 「対抗馬は聖子ちゃんだったけど圧勝でしたね。授賞式の時に両親と息子が来るんですけど、幼稚園だった息子をプロデューサーが2時間説得して連れてきたそうです。壇上で息子を見たらたまらないですよ、泣いちゃいますよ」

 初のレコ大2連覇。さらに翌年、木村友衛が歌ってヒットしていた「浪花節だよ人生は」をカバーし大ヒット。3連覇の夢もあった。

 「俺自身も強運でしたが、(作曲した)船村徹先生もいっぱいいい曲を書いていましたが『矢切』で初めての大賞でした。『たかし君ね、弟子でもなんでもないんですけどね、ありがとう』。奥さんからも『よく周防さんが出してくれました』とお礼を言っていました。3連覇もね。売れていたけど、社長が『やっぱりV3はどうなの』って。大賞も戦えたけど最優秀歌唱賞で良かったと思います」(構成 特別編集委員・国分敦)

◆「北酒場」大賞で大将 本当に来た

 欽ちゃんは「北酒場」を最後まで応援し続けた。「秋の手前に『欽どこ』を卒業しましたが、これも『お前これから忙しくなるから』って大将の配慮です。途中から番組で『目指せレコード大賞』とか振るんですよ。『本当に来てくれるんですか』『取ったら行くでしょう』って。大賞取って『大将来てくれたらうれしいな』と泣かないで歌っていたら、本当に来たんですよ。間奏で。大将来た時にバーッと涙が出ました」 報知新聞社