【あの時・日本レコード大賞<8>】布施明「シクラメンのかほり」売れるわけないと感じた

引用元:スポーツ報知
【あの時・日本レコード大賞<8>】布施明「シクラメンのかほり」売れるわけないと感じた

◆布施明(75年大賞)

 “大みそかはレコ大と紅白”がお茶の間の定番だった。1959年にスタートした日本歌謡界最大の音楽イベント「日本レコード大賞」が今年、令和に入って第1回目となる。12組の歌手や作家が当時を振り返る。(この連載は2018年12月にスポーツ報知掲載の復刻)
 ※「第61回日本レコード大賞」は12月30日午後5時半からTBS系で放送される。

【写真】2年連続レコ大司会の2人

 1975年に「シクラメンのかほり」で大賞を取った布施明が、レコ大を意識したのは67年に平尾昌晃さんが「霧の摩周湖」で作曲賞を受賞した時だという。

 「平尾さんだけ取ったんじゃ悔しいし、僕も歌手をやっている間に歌唱賞は取りたいと思いました。70年に『愛は不死鳥』でヤング歌謡フェスティバルの最優秀歌唱賞を頂いて、これで絶対に歌唱賞を取れると思ったけどダメ。そこからは無冠の帝王と言われ、それでもいいと思っていた」

 「シクラメン」を初めて耳にした時はヒットの予感はなかったという。

 「最初、担当マネジャーの小坂洋二(後に佐野元春、渡辺美里らをプロデュース)が小椋佳さんの『淋しい時』というアップテンポの曲を持って来ました。『もう一曲、カップリングが欲しいから』と依頼したら、米国転勤前のバタバタしている中で小椋さんから出てきたのが『シクラメン』。今さらこんな古めかしいフォークソングっぽい曲が売れるわけないと感じましたが当時、我々の班トップの井澤健さんや渡辺晋社長らは『シクラメンの方がいい』と判断。僕はこりゃ売れなくてラッキーと思いました」

 ―売れなくていいとは。

 「実は会社に『1年ぐらい休ませてほしい』と申し入れてました。僕ね、歌を歌うだけで音楽のことを分かっていなかったんですね。バンドの人たちに『ここを盛り上げたい』と説明する時に『ドバーッとならないかな』と擬音を使うと、みんな『分かった。ダーンね』って。その時の顔が冷ややかで、ずっとストレスを感じていて、いつか音楽を勉強したいと思っていたんです。晋さんも『この曲ともう1曲、2枚出してダメだったらいい』となっていました」

 発売されるとヒット街道をばく進した。

 「休みの予定は狂ったけどうれしくないワケもなく、そこから毎日がシクラメンの日々。夏ぐらいに事故はダメというんで運転禁止に。新幹線に乗るにもいろいろ注意を受けました。ずっと行動が制限されていたから(レコ大で)名前を呼ばれた時は『あ、終わった』と思うだけで涙が出ない。髪を振り乱して歌えば、感動しているように見えるだろうと思って歌っていました」

 長期休養のはずがレコ大のためにご破算になった。

 「翌年は200日以上の営業や公演が入って、僕は抜け殻のようにいらいらしながら仕事をこなしただけ。1年間の休養の計画も夏に1週間ほどハワイに行っただけ。『シクラメン』は最後まで好きになれなくて、それは小椋さんにも言ったことがあります。当時、歌謡大賞とかFNS歌謡大賞とかも頂いて、FNSは賞金も出て、そしたら小椋さんから連絡があって『賞金を我が(第一勧業)銀行に預金してくれ』って。翌日、近所の某銀行の支店長がウチに訪ねてきました(笑い)」(構成 特別編集委員・国分敦)

 ◆布施明(ふせ・あきら)本名・布施晃。1947年12月18日、東京都出身。72歳。65年「君に涙とほほえみを」で歌手デビュー。その後も「霧の摩周湖」「愛は不死鳥」「積木の部屋」などがヒットを連発。75年に「シクラメンのかほり」で日本レコード大賞を受賞。俳優として映画「ラヂオの時間」、ミュージカル「オケピ!」などに出演。18年、22年ぶりのオリジナルアルバム「WALK」を発売。

◆歌い方の参考はアズナブールさん

 爆発的な歌唱力から味わいのある歌い方に変身した。「昔はいい気になっていて、難しいと思える曲や高いキーの作品を『どうよ、負けないぞ』と選んでました。でも、70年に大手町のサンケイホールで(フランス人歌手の)アズナブールのショーを見て変わりました。彼の歌には一曲一曲、物語が見える。吟遊詩人というか琵琶法師みたいな語りなんですね。『これだ。歌の景色や色を出していこう』と気づきました」 報知新聞社