『アイリッシュマン』は、2回目がより面白い!宇野維正が解説するアメリカの“自己批判”と“郷愁”

引用元:Movie Walker
『アイリッシュマン』は、2回目がより面白い!宇野維正が解説するアメリカの“自己批判”と“郷愁”

『アイリッシュマン』についてまず強い実感を込めて言えるのは、1回目に観る時よりも2回目に観る時の方がさらに「面白い」ということだ。その意味でも、本作がNetflixオリジナル映画として配信されていることは、監督のマーティン・スコセッシの意図を超えた場所で大きな価値がある。というのも、3時間29分の作品を何度も映画館に足を運んで観るのはなかなか困難な行為だが(自分も最初はスクリーンで観たが、作品の余韻に浸っている間にその1日が終わってしまった)、Netflixだったら何度でも好きな時に、場合によっては気になるシーンだけピンポイントで、作品を観直すことができるからだ。

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『アイリッシュマン』が2回目以降さらに面白くなる理由は二つある。一つは、2004年に刊行されたノンフィクション作品『I Heard You Paint Houses』を原作とする、本作の一風変わった物語の構造だ。本作は老人ホームにいる主人公、元トラック運転手のフランク・シーラン(ロバート・デ・ニーロ)の回想形式で始まる。シーラン本人がガンで亡くなったのは2003年なので彼が回想しているのはその直前ということになるが、そこでは、シーラン、ペンシルバニアのマフィアのボス、ラッセル・ブファリーノ(ジョー・ペシ)、全米トラック運転手組合委員長ジミー・ホッファ(アル・パチーノ)という本作の主要人物3人のそれまでの関係を終わらせてしまう、1975年7月の自動車旅行の道中での出来事が中心となっている。つまり、本作には現代(2000年頃)と過去(1975年)という二つの起点があり、その上でシーランの第二次世界大戦での従軍時代から後日談的な「1975年から現在」まで、時代が頻繁に入れ替わる構成になっている。脚本や編集は完璧すぎるほど完璧なので、その全体の作品構造さえ把握をしていれば作品に没入することができるが、最初の数十分は(CGで若返ったデ・ニーロやペシの顔に見慣れるのと同様に)ちょっと戸惑う人もいるかもしれない。

もう一つは、そんな時代設定のスパンの広さからもわかるように、本作が射程に収めているのはアメリカ近代史そのものであるということ。そして、そこで太文字の「歴史」との接続点となるのが、「50年代にはエルヴィスと同じくらい人々を熱狂させ、60年代にはビートルズと同じくらい人々を熱狂させた」と作中で語られているホッファだ。ホッファに関しては、ダニー・デヴィート監督・出演、ジャック・ニコルソン主演による『ホッファ』(92)というそのものすばりの伝記作品もあったし、イタリア系マフィアと労働組合の抜き差しならない関係はHBOの傑作テレビシリーズ「ザ・ソプラノズ」(99~07)などでもお馴染みだが、彼と50年代後半から60年代にかけてのジョン・F・ケネディ及びロバート・ケネディとの因縁、その政敵リチャード・ニクソンとの癒着疑惑などについては、(劇中でもシーランの主観からのモノローグによる解説はあるが)少し補足しておく必要があるだろう。

ホッファが全米トラック運転手組合の委員長を務めていたのは1957年から1971年まで。彼は扇動的なスピーチやカリスマ性によって全米の労働者にとってのリーダー的存在として君臨する一方、その強引な手腕によって早くから裏社会とも持ちつ持たれつの関係を結んでいた。過去のスコセッシ作品とのリンクでいうと、『カジノ』(95)で描かれた時代以前のラスベガスでは、ギャンブルの運営資金を銀行から借りることができなかったため、ホッファを通じて当時約150万人いた組合員の莫大な年金資産が投入されていた。50年代後半、そうした裏社会の金の流れを一掃しようとしていたのがロバート・ケネディ上院法律顧問だった。そのためホッファは、1960年の大統領選でロバートの兄である民主党大統領候補ジョン・F・ケネディの対抗馬、共和党大統領候補ニクソンをバックアップするために多額の寄付をしていたが、あえなくニクソンは敗北。その時の大統領選で、ホッファと一蓮托生であったはずのマフィア組織は、ハバナのカジノやリゾートの利権を見込んでジョン・F・ケネディを支援していた。

労働者の敵である資本家の利権を代表する共和党を支持する、労働組合委員長のホッファ。ピッグス湾事件と続くキューバ危機によって、ハバナ奪還の当てが外れることとなったマフィア。さらに、兄ジョンの大統領就任を期に司法長官の座についた弟ロバートは、兄を支援してきたマフィアへの締め付けを強化していく。そうした、アメリカを表と裏でそれぞれ支配していた者たちの思惑のいくつもの「捻れ」が積み重なっていったことで、本作の起点の一つである1975年7月の主人公シーランは、「親子」のような関係を築いてきたラッセル・ブファリーノと、「兄弟」のような関係を築いてきたホッファの間で、ある決断を迫られることになる。

「1975年の出来事」の後日談が描かれていく『アイリッシュマン』の終盤40分は、長いエピローグであるだけでなく、そこで刻まれている深い無力感にこそ本作のエッセンスが凝縮されていると言っていいだろう。街のチンピラたちの生態を描いたキャリア初期の『ミーン・ストリート』(73)に始まり、『グッド・フェローズ』(90)、『カジノ』、『ギャング・オブ・ニューヨーク』(02)と、キャリアを通じてそれぞれの時代におけるアメリカの裏社会を描いてきたスコセッシ(2013年の『ウルフ・オブ・ウォールストリート』も証券マンこそが現代のギャングであることを示唆する作品だった)。そんなスコセッシが77歳にして行き着いたのが、アメリカの近代史を丸ごと飲み込んで、CGという飛び道具を使ってまでも3人の名優がその半生を噛みしめるように演じきった、今回の『アイリッシュマン』ということになる。言うまでもなく、アメリカの裏社会とは、金と欲望と暴力にまみれた罪深い男たちの社会だ。スコセッシは本作でこれまでの作品のようにそんな裏社会の住人である男たちの人生を「切り取る」のではなく、その末路まで容赦なく描いていく。金と欲望と暴力にまみれた罪深い男たちに、「穏やかな老後」など待っているはずもない。本稿の前編でも触れたように、本作の登場人物の多くは、最初のシーンから「死因」と「死んだ年」とともに紹介される。一時的にどんな勢力や権力を誇っていたとしても、結局のところ男たちはほぼ例外なく収監されるか、殺されるか、あるいは収監された後に殺されていく。そして、たまたま生き残ってしまったシーランは、家族からも見捨てられ、後悔と罪の意識に苛まれてただ死を待っている。先述したように本作はシーランの回想から始まるが、それはつまりカトリックにおける罪の「告解」に他ならない。

スコセッシがそれぞれのキャリアの晩年を見据えたかのように盟友たちを集結させて、『アイリッシュマン』のような作品を2010年代の終わりに撮った理由も、マフィア映画に人生を捧げてきた彼自身の「告解」なのではないだろうか。シーランを見る娘ペギーの冷たい視線に象徴されているように、本作は金と欲望と暴力にまみれた男たちを、次の世代から、女性から、忌み嫌われ拒絶される愚かな存在として描いている。『アイリッシュマン』が視聴者に苦い後味を残すのは、本作がそのような自己批判の精神によって形作られているからだろう。ただし、本作には過去のアメリカへの郷愁も仄かに、しかし、確かに漂っていることも観逃してはいけない。

シーランのボスであるラッセル・ブファリーノは第三者を通して部下に汚れ仕事の指令を出すことはなく、必ず本人に指令を直接伝える。アイルランド系のシーランは確かにイタリアン系マフィアの下請けをやってきたが、彼が生きてきた世界は、孫請け、ひ孫請けが当たり前となった新自由主義的社会よりはまだマシかもしれない。ホッファは確かにその立場を利用して裏社会と共犯関係を結んできたが、労働者の利益を代表して戦ってきたのも事実だ。80年代のレーガノミクスを経てアメリカで労働組合はすっかり骨抜きにされて、資本家の利益を代表する共和党の大統領に低所得労働者たちが投票し続けるという「捻れ」が現在も続く中、国内の経済格差はほとんど是正不可能な状況まで進行している。ホッファはジョン・F・ケネディが映ったテレビに向かってこう叫ぶ。「アイリッシュであろうが、カトリックであろうが、俺には関係ない! 俺がこの世の中で最も信用できないのは金持ちの子孫だ!」。右を見ても左を見ても、権力の側にいるのは人種や宗教を問わず金持ちの子孫ばかりの現代に、その言葉はなお一層虚しく響く。

(Movie Walker・文/宇野 維正)