渋谷系を掘り下げる Vol.4 カジヒデキが語る“僕が渋谷のレコ屋店員だった頃”

引用元:音楽ナタリー
渋谷系を掘り下げる Vol.4  カジヒデキが語る“僕が渋谷のレコ屋店員だった頃”

1990年代に日本の音楽シーンで起きた“渋谷系”ムーブメントを複数の記事で多角的に掘り下げていく本連載。第4回はカジヒデキへのインタビューを掲載する。第1回に登場したHMV渋谷と並び、渋谷系周辺のカルチャーを語るうえで欠かせない重要なスポットがフリッパーズ・ギターのメンバーをはじめ、さまざまなアーティストが御用達にしていた渋谷の輸入レコード店ZESTだ。カジは1990年代初頭からネオアコバンドbridgeのベーシストとして音楽活動をする一方、ZESTの店員として耳の肥えた音楽ファンに最新の洋楽を直接届けていた。インターネットやSNSのない時代、輸入レコード店はどんなメディアよりも早く最新の音楽を紹介してくれる“情報発信源”であり、そこで働く目利きのスタッフは多大な影響力を持つ“インフルエンサー”としての役割を果たしていた。今回のインタビューでは、ZEST時代の同僚でもあった音楽ライター土屋恵介を聞き手に迎え、カジに“現場目線”で当時を振り返ってもらった。

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■ ライブハウスとレコードショップ
1990年代の渋谷には、数多くのレコードショップが点在していた。大小合わせて多いときでは30店舗を超えていたと記憶している。その中でも宇田川町にあったZESTは、渋谷系と呼ばれるカルチャーの発信基地として存在した輸入レコード店だ。80年代中盤から、現在HMV record shop 渋谷があるノアビルの5階の一室で、95年からは近くのビルに移転して営業していた。カジはこの店で91年から95年までレコード店員として働いていた。まず本題に入る前に、彼がZESTに勤務するまでの音楽的な変遷をたどっていこう。

「中学のときにSex Pistolsをきっかけにパンクを知って、高校に入る頃にスターリンから日本のアンダーグラウンドシーンにも興味を持つようになったんです。ハードコアパンクの音源をこまめにチェックして『消毒GIG』に行ったりしていましたね。高2ぐらいからはポジパンが好きになって、ソドムのライブには欠かさず行っていたし、あぶらだこも好きでした」

彼がパンクに傾倒したのは、音楽以外のカルチャーからの影響もあったのだという。

「高1のときにリバイバルで観たゴダールの映画からの影響がすごく強くて。カットアップの手法だとか、ゴダールの作品にすごくパンクを感じたんですよね。日本だと寺山修司も好きでした。なのでアートっぽいパンクが好きだったのかも。それから19歳のときにニウロティックドールというゴスのバンドに加入したんです。たぶん1年ぐらい在籍したのかな」

音楽的な趣向がギターポップ周辺へと変わってきたのはこの頃だ。

「The PrimitivesとかThe Woodentopsみたいなバンドが現れて、そこからThe Pastelsに出会ったりしたんです。Aztec CameraやEverything But The Girl、The Smithsなどをネオアコとして意識的に聴き出したり、ZESTに初めて行ったのも、その頃だったと思います。The Woodentopsと言えば、2回目の来日公演の会場で小山田(圭吾)くんを通して、その後のネオアコ友達と知り合ったのも大きかった」

ライブハウスとレコードショップ。当時の音楽フリークには、この2つが音楽的な見聞や交友関係を広げる重要なスポットだった。

「当時渋谷にCSVというレコードショップがあって、僕はそこに足繁く通っていました。あとはWAVEも海外のインディや新しい音楽を積極的に紹介していましたね。ZESTは当時僕が好きだったノイズやインダストリアルミュージックも置いてあるし、ネオアコみたいな音楽にも強いお店だったんです。ある日ZESTに行ったら、店員さんにThe Monochrome Setの『Jacob’s Ladder』のアナログ12inchシングルを薦めてもらって、そこからアノラックやネオアコに一気にのめり込みました。確かその頃にはもうロリポップ・ソニックのライブを観に行きだしていて、彼らやThe Pastelsのような音楽を探していたんだと思う」

■ ビートパンク全盛の裏側で
小山田圭吾と小沢健二が在籍した、のちにフリッパーズ・ギターとなるロリポップ・ソニック。彼らは当時、イギリスのネオアコやインディギターポップに共鳴した音楽を、より洗練したサウンドで聴かせていた。ロリポップ・ソニックにカジが出会ったのは「まったくの偶然だった」という。

「86、87年にかけて、僕は大阪のテクノポップシーンも追いかけていたんですけど、当時好きだったペーターズというバンドが東京でライブをやることになったんです。そのときの対バンがORIGINAL LOVEとロリポップ・ソニックの前身バンドのPEE WEE 60’S。メンバーはギターの小山田くんとキーボードの井上由紀子さんの2人でした。その日のライブで小山田くんが『今日からロリポップ・ソニックという名前で活動します』と宣言して。なので僕は、ロリポップ・ソニックの最初のライブを観てるんです(笑)。4曲しかやらなかったけど、それがとにかく素晴らしくて。2曲がオリジナルで、あとはThe Velvet UndergroundとThe Band of Holy Joyのカバー。昔の新宿ロフトの最前列で観て、『このバンドは僕がやりたい音楽をやってる!』と衝撃を受けました。それが87年の11月で、そこからロリポップのライブに毎回足を運ぶようになりました」

カジが、それほどまでにロリポップ・ソニックに惹かれた理由はなんだったのだろう。

「小山田くんの歌が乱暴でぶっきらぼうだったり、佇まいも含めすごくパンクな感じがしたんです。それまで聴いてきた日本の音楽とは全然違うし、海外のネオアコやギターポップのバンドからの影響は絶大だけど、それらと比べても圧倒的に楽曲がよかった。曲だけじゃなくてファッションも洗練されていてカッコよかったし。当時、世の中はバンドブームでビートパンク全盛だったけど、その裏側で全然違うシーンが生まれそうな予感を感じて最高にワクワクしました」

その一方で、「こういう音楽はメジャーシーンには絶対広がらないだろうなと思っていました(笑)」とカジは振り返る。そもそも当時イギリスのインディバンドを好きな人たちは日本では極少数。ロリポップも、言ってみれば“ど地下”のバンドだった。だが、カジと同じような音楽的趣向の持ち主がロリポップの周りに自然と集まったのである。YouTubeどころかインターネットもケータイもない時代。もっと海外の面白い音楽を知りたい、探したいという欲求は、レコードショップに行くことでしか解消できなかった。ネオアコやインディギターポップの新譜を扱うZESTで、カジが働き始めたのも必然的な流れだった。

「僕がZESTでバイトを始めたのはフリッパーズ・ギターが解散した直後の91年10月です。ずっとZESTには通っていたんですけど、実際に働こうと思ったのは91年の夏に仲真史くん(現BIG LOVE / 元ESCALATOR RECORDS代表)と一緒に初めてロンドン旅行に行ったとき。仲くんに『バンドをちゃんと続けたいんだったら、もっと音楽に詳しくなったほうがいい』と言われたんですよ。それで帰国後に、当時お店で働いてた瀧見憲司さん(Crue-L Records代表)を通して社長を紹介してもらい、ZESTで働くことになったんです」

■ “レコード=おしゃれ”という概念
90年代前半と言えば、マッドチェスター、アシッドジャズ、ジャズグルーヴ、ブリットポップなど海外で新たな潮流が続々と巻き起こっていた時代だ。日本ではフリッパーズ・ギターの解散後に、小山田圭吾がCorneliusとしての活動を、小沢健二がソロ活動を開始し、ORIGINAL LOVEやピチカート・ファイヴもヒットを生むなど、渋谷系と呼ばれるアーティストが音楽シーンに爪痕を残し始めたタイミング。彼らがメジャーシーンで幅広い層から支持されるようになった頃から、渋谷系周辺のカルチャーが注目されるようになる。そしてこの時期、80年代後半から本格化したクラブカルチャーの盛り上がりとも相まって、アナログレコードが再び脚光を浴びることとなったのだ。

「すごく覚えてるのは、91年の年末にフリッパーズ・ギターの3枚のアルバムがアナログ化されたとき。限定リリースということもあって一瞬で売り切れました。あの時期を境にレコードブームが爆発した印象があります。中でも印象的だったのが、女の子たちがレコードを買うようになったこと。それは明らかにフリッパーズの影響ですね」

CD全盛の時代で、もはやレコードは過去のものとされていた90年代初頭、“レコード=おしゃれ”という概念が生まれ、10~20代の女子が輸入レコードを買うという現象が起きたのだ。

「フリッパーズがいろんな雑誌の連載でインディギターポップやネオアコを紹介したり、雑誌『Olive』に頻繁に登場したりしていたことも大きかったと思います。2人が紹介するレコードはジャケットもかわいいし、音楽的にも洗練されている。それをきっかけに女の子たちがレコードを買うようになり、レコ屋ブームみたいなものが訪れた印象があります。当時すごく売れたのはWould-Be-Goodsのアルバム。フリッパーズやカヒミ・カリィさんが推していたel Records(※1つ目の「e」はアキュートアクセント付きが正式表記)のレコードが売れましたね。あとはフランス・ギャルのベスト盤もロングセラーでした」

女子だけでなく、レコードは音楽に飢える男子の心もしっかりとつかんだ。コレクター目線の嗜好品ではなく、まだ誰も知らない音楽をいち早く聴くための必須アイテムとして、レコードは当時のマニアックな音楽ファンにとって喉から手が出るほど欲しいものだったのだ。輸入盤は入荷枚数が限られており、さらに新しいインディ系のバンドは、CDリリースされず7inchや12inchアナログでしか聴くことのできない音源も多かった。

「ブリットポップが流行ったときもすごかったです。特にBlurの『Girls & Boys』の12inchシングルは、たくさん売った記憶がありますね。それがほかのお店に全然入らなくて、入荷すると100枚くらいが瞬時に売り切れました。でも数回『ポスターが入ってない!』って、お客さんからクレームが来たのを覚えています(笑)」

■ 空前のレコードブーム到来
気が付けば、マンションの一室で営業していたZESTは満員のお客さんでごった返す日々。カジ曰く「お客さんが押し寄せて、92年ぐらいは、夕方になると毎日店内が満員電車みたいな状態(笑)」となった。

ZESTの品ぞろえに触れると、ネオアコ、インディポップ、ニューウェイヴ、パンク、ガレージ、ロカビリーのLP、12inchシングル、7inchシングル。CDも置いていたが、主軸は完全にレコード。新譜だけでなく、イギリスで買い付けた中古盤の取り扱いもあった。結果、ベレー帽の女子とパンクスが背中合わせでレコードを探すという、それまでにないような光景も見られた。当時のZESTには時期は前後しつつ、カジのほかにも、前述の仲、神田朋樹(Favourite Marine)、松田“CHABE”岳二(CUBISMO GRAFICO)といった渋谷系カルチャーの重要人物たちが勤務していた。ノアビル時代は狭い店だったので、店番は基本1人、商品の入荷時など忙しいときは2人での業務だった。

「ZESTはレコードを10枚ぐらい面出しできるようになっていて、入荷のタイミングでラインナップを変えるんですけど、新譜を全部買っていく人がけっこういました。あとZESTのレコード袋も人気だったんですよ。デザインがすごく凝っていて。そういう意味では社長がセンスがある人だったというのはすごくあります」

ZESTでは、日本の音楽はほとんど取り扱いがなかった。例外的に置かれていたのは、瀧見憲司のCrue-L Recordsや仲真史のESCALATOR RECORDSといった元ZEST店員が立ち上げたレーベル、小山田圭吾が主宰していたトラットリアからの作品やピチカート・ファイヴが出すアナログ盤など、簡単に言うと店にゆかりのあるレーベルやアーティストの作品以外、ラインナップはほぼ洋楽だった。

「身近な人たちがインディペントレーベルを立ち上げたのは、僕らの周りのシーンが大きくなる起爆剤の1つになりました」とカジは語る。90年代は自分たちでDIY的に何かを始めるような機運が高まっていた時期でもあった。Crue-LやESCALATORなどのインディレーベルと同時期に、雑誌に目を移すと「Barfout!」や「米国音楽」「クッキーシーン」といったインディマガジンが続々と創刊された。

「パンクに通じるDIY精神ですよね。それをレーベルを通じて体現していたのが、瀧見さんや仲くんだったんだと思います。高校生の頃にバンドブームが起こって、パンクバンドがみんなメジャーに行っちゃって、僕らは『パンクなのに全然DIYじゃないじゃん!』って思ったんです(笑)。だから瀧見さんがCrue-Lを始めたときのDIY的な姿勢はすごく革新的でした。『本来のインディはこうじゃないの?』って瀧見さんや仲くんはわかっていたんだと思います」

■ スウェディッシュブームの発端
のちに渋谷系と呼ばれるようになるカルチャーは、自分たちがいいと思うものを自発的に発信するというところがすべてのスタート地点になっている。

「基本は口コミですよね。それが大きな波紋を生んでブームになっていったんです。例えばThe Cardigansは、WAVEの荒木さんというバイヤーがいち早く入荷させたんですけど、『もう、The Cardigans聴いた?』っていう噂が渋谷のレコ屋を中心に一瞬の内に広まって、その後日本で大ヒットしたんです。それがEggstoneやCloudberry Jamを含めたスウェディッシュブームにつながっていって。しかもThe Cardigansはのちのちイギリスやアメリカでも大ヒットした。それって日本の音楽ファンの耳のよさ、センスのよさみたいなものを象徴していたなと思うんです」

ZEST発信でヒットした音楽も少なくない。スペインのバンドLe Mansのように局地的に売れたものもあれば、Tahiti 80のように大きなヒットにつながったものもある。

「外的な評価に惑わされず、自分たちがいいと思うものをちゃんと評価して売ることができていたんですよね。それはたぶん、音楽をたくさん聴くことで自分たちもお客さんも耳が肥えていたからだと思います。例えばサントラとかフレンチポップにしても、別に海外で流行ってるという理由で聴いていたわけじゃないし。みんな自分たちのセンスで、純粋に“いい音楽”としてチョイスしていたんです」

あの時代、ZESTに限らずレコードショップが音楽カルチャーに大きな影響を与えていたのは間違いない。

「ネットがないから、最初に情報を得られる場所がレコードショップだったんです。だからこそ、店員やバイヤーが音楽に詳しくなきゃいけなかったし。それに加えて、クラブシーンもすごく盛り上がっていたので、DJの人たちがいち早く最新のレコードを買ってクラブでかけることに必死になってた。それを聴いた僕らがレコードショップに走るというサイクルがあったんです(笑)」

■ 「何を元ネタにするか」が重要
レコードショップで働きながら休憩時間に、ほかのレコードショップにレコードを買いに行く。端から見ると不思議な行動に思われるかもしれないが、これが自分たちの日常だった。ECDの「DIRECT DRIVE」の歌詞のごとく「レコード、レコード…レコードを聴いている、今日も!」の世界である。同じくヴァイナルクレイジーとしての日々を過ごしたカジに、レコードショップで働いていたことによって自身が作る音楽にどんな影響があったのかを聞いてみた。

「当時、自分が作った曲は必ず聴いてた音楽の影響を受けていました。むしろ何を元ネタにするかということを重要視していたところがあります。フリッパーズしかり小西康陽さんしかり、いかにみんなが知らない元ネタを見つけてくるか、それをあえて提示するのが渋谷系的な感覚だったと思うんです。面白い音楽を独自に探して自分の表現として昇華して、みんなで共有していく感覚。自分も、いかに元ネタをうまく調理できるかに命を懸けてました。渋谷系と呼ばれるアーティストは、当時そんなふうにみんなで競い合ってた気がします。音楽を作るけど、みんなが音楽の紹介人でもあったなって。そうやって生み出した楽曲で、カウンターとして、メインストリームの音楽を超えてやるぞという気持ちをみんなが共通して持っていた気がします」

■ サニーデイ登場で変わった時代のムード
90年代中盤に入ると、渋谷系周辺のカルチャーも徐々に変化を遂げていく。そうした中で、カジが衝撃を受けたのがサニーデイ・サービスの存在だった。

「サニーデイ・サービスの登場はすごく衝撃でした。渋谷系のアーティストは基本的にみんな洋楽志向で、あまり邦楽アーティストからの影響を口にしていなかった。だから曽我部(恵一)くんが、はっぴいえんどや70年代の日本のロックからの影響を公言してるのを見て、すごいなと思ったんです。僕も大瀧詠一さんやYMOが大好きだったんだけど、あえて口にはしてなかったんですよ。当時はそれ以上に現在進行形の欧米の音楽に夢中だったし、やっぱりはっぴいえんど周辺は上の世代の音楽というイメージがあって。渋谷系自体、前時代のものやメジャーなものに対するカウンターカルチャーだったんだけど、曽我部くんは、そこにさらなるカウンターを打ち込んできた。そういう意味では、フリッパーズの2人もすごいけど、曽我部くんも同じくらい革新的な人だと思うんです。もともとサニーデイもフリッパーズみたいな洋楽志向の強いバンドでしたけど、そこから振り切ってあのスタイルになったのは正直すごいなと。あれは当時、誰もできなかったです。サニーデイの『東京』(1996年)が出たときは確実に時代のムードが変わったなと思いましたね」

カウンターに対してのカウンター。90年代の音楽カルチャーは、まさにボクシングの乱打戦のようなスリリングさがあったわけだ。

■ 渋谷系はライフスタイルの変革
渋谷系は、90年代という時代だからこそ生まれたカウンターカルチャーだと言える。自分たちが欲しい情報は自分たちの足で探す時代。そこで価値を見い出したものを仲間とシェアして、それが波紋のように広がっていくという連鎖感。渋谷系の前と後では、音楽やカルチャーを捉えるスタンスが大きく変わったことは実感として残っている。当時、バカ売れしていたJ-POPシーンとは関係のないところで発生した、ライブハウスやクラブ、レコードショップといった“現場”から生まれたムーブメント。渋谷系はメインストリームに予想外の角度から攻め入り、風穴を開けてしまったのだ。改めて考えると実に痛快な話である。そうした骨太な文化だからこそ、30年近く経った今でも、こうして語り継がれているのではないだろうか。その当事者であるカジ自身は90年代や渋谷系に対してどんな思いを持っているのだろう。

「ものすごくワクワクする時代でした。80年代後半までは「『ロックやパンクはこうでなければいけない』みたいな風潮が強くあったんだけど、僕はそういうノリが大嫌いだったんです。自分から枠にハマる感じがカッコ悪く思えて。パンクは大好きだけど、みんながそろって鋲付きの革ジャンを着ているよりも、例えばポール・ウェラーのようにあえて独自におしゃれな格好をするとか、それが本当のパンクなんじゃないかって。僕はそういう感覚を渋谷系周辺のカルチャーに感じていたんだと思います。あと、あの頃を振り返って面白いなと思うのは、音楽だけじゃなくて映画やアートも連動してたこと。渋谷系ってライフスタイルの変革だと思うんですけど、そこを否定する自分だったら、あんなに楽しめてなかったと思う。あの時代を純粋に楽しめたからこそ、今の僕があるんだと思います」

■ カジヒデキ
1967年千葉県出身のシンガーソングライター。89年10月にネオアコバンドbridgeを結成しベースを担当。93年3月にトラットリアより1stアルバム「Spring Hill Fair」をリリース。95年のバンド解散を経て、96年8月に「マスカットe.p.」でソロデビューを果たす。そのポップな音楽性とキャラクターが幅広い支持を受け、一躍“渋谷系”シーンの中心的存在に。最新作は2019年6月発表のアルバム「GOTH ROMANCE」。12月16日に東京・SPACE ODD、12月20日に大阪・CONPASSにて主催イベント「BLUE BOYS CLUB presents “Ghost of Christmas Past”」を行う。また12月22日に東京・clubasiaで行われる「LONDON NIGHT X’MAS SPECIAL 2019」への出演も決定している。

取材・文 / 土屋恵介(a.k.a. INAZZMA★K) 撮影 / 相澤心也