大空眞弓、がんの恐怖ない…9度の手術を克服 もぐら叩きのように早期でやっつけた

引用元:スポーツ報知
大空眞弓、がんの恐怖ない…9度の手術を克服 もぐら叩きのように早期でやっつけた

 病気は人をどのように変えていくのでしょうか。随時連載「病もまた人生」がスタートします。初回に登場するのは女優・大空眞弓(80)。1998年の胃がんを始め、がんの手術を9回も経験。20代で最愛の姉を失った悲しみを思えば「がんの恐怖は全くない」と、がん宣告にも動じず、慌てず。しっかり者の役を多く演じてきたが、素顔はのんびり屋さんで“天然キャラ”。今も元気でいられるのは「もぐら叩きのように早期にやっつけてきたから」と話します。(内野 小百美)

 転移でなく独立した原発のがんが次々にできることを「多重がん」と呼ぶという。乳がん→胃がん→食道がん…大空もこれに当てはまる。9回もがんを克服してきた。

 最初のがんは1998年、左乳房に見つかった。58歳。メイクの人に「顔色が変」と指摘されて検査を受けたのがきっかけだ。医師に「どうします?」と聞かれ、迷わず全摘手術を選択。縦5センチ、横7センチほど切った。

 「ドラマ収録と舞台が控えていて。仕事で絶対に迷惑をかけたくなかったの。ショック? 子供産んだ後だし、水着になる年でもない。ないと困る時期は過ぎていた。(全摘でないと)通院しなければならないと言われ、そんな面倒なことダメで『全摘でお願いします』と言ったのね」

 2001、02年に胃がん、03年に食道がんが見つかり内視鏡手術を受けた。定期健診で発見され、いずれも初期だった。

 「ゆっくり休んで治す、という発想はない。共演者には絶対言わないでと伝えた。芝居に遠慮や気遣いが必ず出てしまう。それは絶対良くないと思ったので」

 担当医師も驚くほど冷静で達観した振る舞い。大空の人生観を揺るがしたのは4歳年上の姉の死によるところが大きい。胃がんで66年、29歳で逝った。

 「当時は死の病だったので家族で胃潰瘍と言って姉にウソを通した。日に日に痩せ細って。見るのがつらくて。病室の扉を開ける時、明るく振る舞う心の準備をして。勘の鋭い人だったから、気づいていたはず。私よりずっとすてきでチャーミングで優しくて。今もしょっちゅう思い出すのね」

 尊敬し、頼れる憧れの存在だった。その後、母を肝臓がんで75年(享年71)、父を胃がんで01年(享年91)に見送る。

 「がん家系なので、きっと私もなるだろう。いつか来るという覚悟があった。なので、がんになった時、『あっ、来たな』と。焦りも動揺も全然感じなかったの」

 大空は母の転倒アクシデントで妊娠7か月で生まれた。約1000グラムの小さな赤ちゃん。母が病院に担ぎ込まれた時、医師が「どちらかの命しか助からない」と言うほど危険な状態だった。

 そんな強運の下、産声を上げた。中学は白百合学園へ。「特にお嫁さん願望もなく」幼稚園の先生になるつもりでいた。父は貿易会社を営み、九段育ち。夏は避暑目的で千鳥ケ淵にあったフェアーモントホテルで1、2か月間過ごすという裕福な暮らしだった。

 17歳。転機は訪れる。邦画が活況を呈していた。目鼻立ちのはっきりした華やかな顔だちが目を引き、スカウトされた。

 「歌舞伎座で声を掛けられて。あの頃スカウトが流行(はや)ってたのね。渋谷でもまた『お嬢さん』と。素人よね。『もう声掛けられました』と答えちゃって。恥ずかしくて、今ならとても言えないセリフよね」

 ところが父親は大反対。箱入り娘のように育ててきた娘がよく分からない世界に入ることを心配した。

 「それはもう、すごかった。だんだん頭にきて。そんなに反対するなら逆に女優になると火がついた。でも実際に仕事を始めたら応援してくれた。ゴルフ場に行けば私のこと“宣伝”してくれたり。親ってそんなものよ」

 ちょっとした特技がある。記憶力が飛び抜けていた。稽古場で読むうちに自分以外のセリフも頭に入った。

 「今は衰えましたけど、若い時は家で台本を開けたことがなかったくらい」

 しかし女優人生でピンチがあった。03年の食道がんの時。内視鏡での手術だったが、食道周囲の半分を塞ぐほど、がんは進んでいた。しかも舞台が入っていて手術をずらしてもらった。

 「術後、先生が見回りに来られて。『お加減どうですか?』と。『大丈夫ですよ』と答えたら、『良かった~! 声が出た』とすごく喜んでおられた」。声帯が傷つき声が出なくなる危険性があったという。

 「姉を失った時、“かけがえのない”という言葉の意味を思い知った。でも、どんなに深い悲しみも大きなショックも、時間が癒やしてくれることも学んだの。生まれてきた限り、みんな、いつかいなくなる。人生に思い残したことはない。よく占い師に『私は何歳まで生きます?』と聞く人いるでしょ? あれ理解できない。聞いてどうするのかしら」

 もし、スカウトされなければ、「役者を志すことはなかった。でも女優になれて良かった。だって面白い。幸せな人生だったと心から思うわ」。役に没頭することで、姉の寂しさを忘れた時もあっただろう。20代で最愛の人を亡くした失意が、死生観も変え、魂の揺らぎを知った。私生活の思いは胸に秘め、演技に昇華する中で、見る者の魂を揺さぶる側に立って生きてきた。

 恵まれて育った、のんびりした“お嬢さん気質”の一面もまた大空を救ったといえる。素顔はいわゆる天然キャラのようだ。

 「多重がんの私が今も元気なのは早期発見、早期治療に尽きます。自分を褒めるとしたら、先生を信じて疑わないこと。医学書とか読んだことないの。たまに病院や医師を紹介してと言われるけど、それはしません。命に関わることだし責任持てないから」

 通った私立の学校の影響もあって20代で洗礼を受けた。50歳過ぎてがんになった時、「(姉、両親と)同じ血が流れていたんだな」という思いが真っ先に浮かんだ。「私の場合、もぐら叩きのようにやっつけてきた感じね」。先日の健康診断では「全く、どこも異常なしよ」

 3月10日、80歳になった。「こんなに長生きできると思ってもいなかった」。命のはかなさと尊さを思い、姉の分も生きてきた。

 「でもつくづく思うわ。“がん”という名前が悪い。響きが暗くて恐怖感を与えるでしょ。“かん”だったらイメージが違う。『私、かんなの』。ほら、全然印象が違って聞こえるでしょ?」

 天然キャラをのぞかせ、取材は終わったのだった。

 ◆テレ朝系「やすらぎの刻~道」完走 万引きGメンから指導盗む側やり方役立つ

 大空は、27日に最終回を迎えたテレ朝系「やすらぎの刻(とき)~道」で演じた大女優・桂木怜子役の好演も話題に。テレビ創生期に“よろめきドラマ”でブレイクした設定だが、話が異常に長く、周囲を辟易(へきえき)させる一面も。安い物を万引きする盗癖まである役どころだった。

 「みんなNG出さないベテランばかり。すごかった。新しい友達もできて。楽しかった」。印象的な万引きシーンを「昔、万引きを捕まえる役の経験があった。本物の万引きGメンの指導を受けた時、盗む側のやり方も教わり、今回それが役立った」。

 桂木に長年付き人のように寄り添う妹分的存在の中川玉子を演じたいしだあゆみ(72)の演技も光った。「あゆみちゃんの芝居が、もともと好きでした。今回はさらに素晴らしくて。共演がうれしかった。芝居を通して透けて見える人間性が魅力ね」と“名コンビ”を振り返った。

 ◆大空 眞弓(おおぞら・まゆみ)1940年3月10日、東京都生まれ。80歳。東洋音楽高(現東京音大付高)卒。58年新東宝に入り、映画「坊ちゃん天国」で女優デビュー。61年東京映画に移籍し「駅前シリーズ」などに出演。64年ドラマ「愛と死をみつめて」がヒット。90年舞台「人生は、ガタゴト列車に乗って…」で菊田一夫演劇賞。俳優の勝呂誉と68年結婚するが82年離婚。1男がいる。座右の銘は「いつも初めてのように」。 報知新聞社