「お別れの会」はコロナ禍収束後に…志村けんさん、大爆笑をありがとう

引用元:スポーツ報知
「お別れの会」はコロナ禍収束後に…志村けんさん、大爆笑をありがとう

 国民的お笑いグループ「ザ・ドリフターズ」のメンバーでタレントの志村けん(本名・志村康徳=しむら・やすのり)さんが29日午後11時10分、新型コロナウイルスによる肺炎のため、都内の病院で死去した。70歳だった。20日から入院中で、23日に新型コロナウイルスの陽性と判明。人工心肺装置を使うなどの治療を続けたが、29日未明に容体が悪化した。遺族の意向で通夜、葬儀・告別式は近親者のみで執り行う。お別れの会については後日、発表される。

 約半世紀、日本のお笑いの第一線を走り続けた志村さんが逝った。新型コロナウイルスの猛威には、希代のコメディアンも勝てなかった。

 スポーツの報知の取材では、28日に脳出血の症状が出て容体が急変。29日午後に死亡が確認された。指定感染症のため、入院先の病室は隔離され、親族でも面会できない状態。誰にもみとられない最期となった。

 厚生労働省によると、新型コロナウイルスで亡くなった場合、遺体は「24時間以内に火葬することができる」とされており、すでに都内の斎場で荼毘(だび)に付されたとみられる。遺骨は31日の夕方に兄・知之さん(73)の自宅に移される予定で、親族のみで家族葬を行う。新型コロナウイルスの流行が落ち着いた頃に「お別れ会」を開く予定だ。

 志村さんは17日にけん怠感を訴え、自宅で療養した。19日に発熱やせきの症状が出て呼吸困難になり、20日に重度の肺炎で入院。21日から意識のない状態だった。23日に新型コロナウイルスの検査で国内の芸能人で初めて陽性が判明した。25日に新宿区内の病院に転院後、重度の呼吸不全や心肺停止状態になった患者に使用する体外式膜型人工肺(ECMO=エクモ)で、懸命な治療が施されていた。

 事務所関係者はこの日、都内で「志村けんもこういう亡くなり方をすると思っていなかったと思う」と無念さを吐露。「最後まで笑いを届けるという使命感を持って頑張っていたと思う。これから放送される番組もある。思い出して笑っていただければ」と話した。

 志村さんは、高校卒業直前の68年2月にザ・ドリフターズのいかりや長介さん(04年逝去、享年72)に弟子入りした。メンバー見習いを経て、脱退した荒井注さん(00年逝去、享年71)に代わり、74年4月に正式メンバーに昇格。放送回数803回、最高視聴率50・5%を記録したTBS系「8時だョ!全員集合」(69年10月~71年3月、71年10月~85年9月)に出演しブレイクした。

 76年に少年少女合唱隊のコーナーで披露した「東村山音頭」で一躍お茶の間の人気者に。加藤茶(77)とリズムに合わせて大道芸を行う「ヒゲダンス」、童謡「七つの子」の替え歌「カラスの勝手でしょ」など多くの笑いを生んだ。

 その後も、「バカ殿様」やフジテレビ系「志村けんのだいじょうぶだぁ」での変なおじさん、ひとみばあさんといった名物キャラクターが生まれ、「アイ~ン」などのギャグは老若男女に親しまれた。

 仕事が順調な反面、肝臓に持病があっても大好きなお酒はやめず、16年に肺炎で入院するまではヘビースモーカーだった。今年に入って、胃のポリープの除去手術を受けたばかりだった。

 新型コロナウイルスの脅威によって、すでに決まっていた初主演映画「キネマの神様」(山田洋次監督)や故郷・東村山市での聖火ランナーの夢も奪われることになった。志半ばで、静かに人生の幕を閉じた。

 ◆志村 けん(しむら・けん)本名・志村康徳。1950年2月20日、東京・東村山町(現・東村山市)生まれ。都立久留米高在学中の68年2月、いかりや長介に弟子入り。漫才コンビなどを経て74年にザ・ドリフターズに正式加入。76年に「東村山音頭」で人気に。多くのレギュラー番組で活躍し、06年からは舞台「志村魂」で座長を務めた。身長169センチ。 報知新聞社