ちあきなおみの「喝采」はなぜ伝説の一曲となったのか

ちあきなおみの「喝采」はなぜ伝説の一曲となったのか

【あのヒット曲 意外な誕生秘話】

 最愛の夫・郷鍈治と死別したのが平成4年9月。以来、ちあきなおみは一切の芸能活動を休止した。今日に至るも、歌手活動はおろか、その姿を公共の場で見せたことがない。それゆえ、年々“伝説の歌手”として、その存在感が強まっている。日本歌謡史上でもまれなことである。

 ちあきなおみが、今なお多くの人の記憶に残る最大の魅力は、あの独特な声にある。どうやって生まれたのか。

 芸事好きな母親の影響で4歳からタップダンスを習い、5歳にして日劇で初舞台を踏み、それからは占領軍キャンプ、ジャズ喫茶、キャバレー回り、橋幸夫やこまどり姉妹の前座歌手を務めていた。

 芸事に長けたちあきなおみが、「雨に濡れた慕情」でコロムビアからデビューしたのは昭和44年、21歳のときだった。1年4カ月の間レッスンをつけた作曲家の鈴木淳は「張りがあってハスキーさがプラスされた独自の声」であることを見いだし、「世界に二つとないようなバイオリンにも似た“名器”の響きがある」と折り紙をつけた。あの声は、デビュー前には出来上がっていたのである。

■歌声におびき寄せられた中村泰士が作曲

 デビュー曲の「雨に――」に続いて、育ての親の鈴木淳が翌年書いたのが「四つのお願い」。これが大ヒットし、紅白歌合戦にも出場した。

 そして、いよいよ昭和47年の「喝采」である。この曲は、鈴木淳の作品でなく、曲をつくったのは中村泰士。「四つのお願い」などでちあきなおみの魅力ある歌声に背筋をゾクゾクさせ、「ぜひ、ちあきなおみの曲を書かせてくれ」とコロムビア文芸部を訪ねてきたのだ。

 中村は当時、佐川満男の「今は幸せかい」を作詞・作曲し、歌手から作曲家に転向していたが、まだ新進。しかし、中村の熱意にほだされて、コロムビアは願いを聞き入れた。吉田旺作詞の最初の曲「禁じられた恋の島」はヒットしなかったが、同じコンビによる「喝采」が一気に爆発した。発売からわずか3カ月で第14回レコード大賞を受賞。これは最短記録だった。

 ちあきなおみのバイオリンのような歌声が、中村泰士を引き寄せ、見事当たったわけだが、大ヒットの秘密はもうひとつあった。

■“実話”との触れ込みで売り出されたが…

 当初、この曲はちあきなおみの悲しい実体験を基にしたとの触れ込みでプロモートされた。歌謡曲にはタブーとされた「届いた報らせは黒いふちどり」とか「喪服」といったマイナーな歌詞を使ったドラマチック歌謡は、ちあきなおみの歌唱力によって迫真力と凄みが漂い、それゆえ「現実にあったことを歌っているのか」と、聴く人を錯覚させ、胸を激しく揺さぶったものだ。

 それが実話とかフィクションという話を超越してしまったのは、彼女の歌声の幅広さのたまものであろう。

 今なお、“歌わない喝采歌手”として、伝説だけが広まるちあきなおみ。「もったいない」と思うか、「このままでいい」と思うか、そこは意見が分かれるところだろう。

(塩澤実信/ノンフィクション作家)