三島由紀夫1人対1000人 全共闘“伝説の討論会”がよみがえる

引用元:産経新聞
三島由紀夫1人対1000人 全共闘“伝説の討論会”がよみがえる

 文豪、三島由紀夫が昭和45年に陸上自衛隊市ケ谷駐屯地で割腹自決してから50年。その前年、東京大学駒場キャンパスで行われた三島と東大全学共闘会議(全共闘)の学生らとの討論会は、後に“伝説”と呼ばれた。この討論会の映像を軸に、三島文学に造詣が深い小説家、平野啓一郎ら識者の解説や、元全共闘の当事者らの証言で構成されたドキュメンタリー映画「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」について、豊島圭介監督(48)に話を聞いた。(水沼啓子)

 ■会場から笑いも

 討論会が開かれた44年当時、火炎瓶やゲバ棒を手に学生運動は全国的な盛り上がりを見せていた。中でも東大全共闘は同年1月、東大安田講堂を占拠するなどの過激な闘争を繰り広げていた。

 一方、「行動する作家」と呼ばれた三島は全集42巻に及ぶ多くの作品を執筆しただけでなく、ボディービルで肉体を鍛え、写真集のモデルや映画の主演も務めた。ボクシングや空手、剣道もたしなみ、文武両道を実践。また右翼や民族派の学生らからなる民兵組織「楯の会」を立ち上げ、隊員らを連れて自衛隊への体験入隊も繰り返していた。

 「三島を論破して立ち往生させ、舞台の上で切腹させる」と息巻く学生-。大講堂は1千人を超える学生らで埋め尽くされていた。警視庁からの警護の申し出を断り、物騒な“敵地”に単身、乗り込む三島。右翼的天皇主義者でタカ派と見られていた三島は、急進的左翼学生の“格好の餌食”だったに違いない。

 約2時間半にわたった三島と全共闘の学生らとの激論は、平和的に進められた。三島のユーモアを交えた話に、会場からは笑いがこぼれることも。後日、三島はこの討論会を「愉快な経験であった」と振り返っている。

 討論会の中身は「了解不可能な質問と砂漠のような観念語の羅列の中でだんだんに募ってくる神経的な疲労」と三島自身が表現しているように難解だ。

 豊島監督は「三島が自分のボキャブラリーにないものを一生懸命に聞いて、自分なりに咀嚼(そしゃく)して議論をしている。学生の挑戦的な態度もきっちり受け止め、誠実に議論しようとする三島に魅力を感じた」と話す。

 ■「1日で人生規定」

 作品中に登場する楯の会1期生や元東大全共闘を、監督自身が直接、取材した。「彼らの話が圧倒的に面白いのは、三島に会ってしまった実感があるからだ。全共闘の学生にとって三島に会ったのはたった1日だけだが、その後の人生を規定されていった。50年後の今も、なぜ三島は死んだのだろうと考えている」という。

 東大全共闘の学生も今は七十代となり、顔にはしわが刻まれ、白髪頭だ。「タイトルに50年目の真実と付けたのは、この討論会が今どんな意味を持つか、そして50年という年月を映すものだったから」と語った。

 「当時を知る世代にはこの作品はタイムマシンのようなもの。青春時代にあっという間に戻れるのではないだろうか。濃いキャラクターの人たちが、すごい熱量で相手と言葉を交わしていること自体が面白い」と、若い世代にもぜひ見てほしいと訴える。

 ■本紙も報道

 本紙(当時サンケイ新聞)も討論会翌日(44年5月14日)付朝刊で、「和気あいあいの“対決”」との見出しで、討論会の様子や参加した学生そして三島自身の感想も伝えている。

 「学生たちが前宣伝ほどにかみつかず、三島氏に“全共闘一日参加”を楽しまれた格好だ」「『暴力を無原則的に否定しないという点では、全共闘の諸君と一致する』と三島氏が発言すると、学生側から『異議なし』の声が飛ぶなど、予想されたはげしいやりとりはみられなかった」

 「学生たちの感想は『観念的すぎたが、おもしろかった』『三島氏を粉砕できなかったが、久しぶりに高尚な勉強をした』などとさまざま。『全共闘のゲバルト派は大半が逮捕中。残る書斎派では、三島氏にたちうちできませんよ』と自嘲する学生もいた」

 「討論集会のあと三島氏は『全共闘の招きとあれば、敵にうしろは見せられませんからね。ほかの約束を断って出席した。会場の入り口前に、胸毛なんかはやしたボクのマンガが描いてあり、“東大動物園にいない近代ゴリラ”だの“観賞料”だの書いてあった。あれは資金かせぎのカンパだよ。共感なんかしないが、全共闘って、なかなか個性的な集団だね』といっていた」

 20日から東京・TOHOシネマズシャンテ、大阪ステーションシティシネマなどで全国公開。1時間48分。