『ベルリン・天使の詩』で鬼才ヴィム・ヴェンダースが見た、天使の正体とは?

引用元:CINEMORE
『ベルリン・天使の詩』で鬼才ヴィム・ヴェンダースが見た、天使の正体とは?

 ミニシアターブームが起こった1980年代後半の東京では、ロングランヒットとなった作品が次々に誕生。中でも、『ベルリン・天使の詩』の熱狂ぶりは凄かった。日比谷のシャンテ・シネで公開されるや、メディアや口コミによって高評価が拡散され、30週を超えるロングランヒットを記録。その後、劇場を移し、のべ一年以上も上映され続けたのだから驚く。筆者も公開時、シャンテ・シネに足を運んだが、最初はあまりの行列に断念。並ぶことを覚悟した2度目のチャレンジで、ようやく見ることができた。

 監督のヴィム・ヴェンダースは、言わずと知れたドイツの鬼才。当時、カンヌ国際映画祭パルムドール受賞作『パリ、テキサス』(84)で日本でも注目されてはいたが、その名をさらに広く知らしめたのは本作だろう。このロングランヒットにより、それまで日本未公開だった『都会のアリス』(74)『まわり道』(75)『さすらい』(76)『東京画』(85)などが次々と上陸。『パリ、テキサス』も再評価され、ヴェンダースは一気にサブカルチャーの寵児となった。

 物語の核となるのは、ベルリンの街を見守る天使たちの存在だ。彼らは人々の生活に静かに寄り添っていた。大人には、その姿は見えず、子どもは見ることができる。そんな天使のひとり、ダミエル(ブルーノ・ガンツ)が、サーカスの空中ブランコをしている女性マリオン(ソルヴェイグ・ドマルタン)に恋をした。元天使だった俳優ピーター・フォーク(本人)と知り合い、その勧めで、ダミエルは人間になることを決意する……。

 ヴェンダース流のこのファンタジーが生み出された背景には、素晴らしいインスピレーションをあたえた多くの人々がいた。ここではヴェンダースにとっての、そんな”天使”の存在について考えてみよう。

始まりは、ベルリンの街の大好きな場所にカメラを向けること

 当初ヴェンダースは『パリ、テキサス』に続く劇映画として、世界を駆けるロードムービー『夢の涯てまでも』(91)の企画を考えていた。しかし、このプロジェクトはスケールが大きすぎた。ヴェンダースは当時の恋人ソルヴェイグ・ドマルタンとともに脚本を執筆しながら、ロケ地候補の12か国をめぐるも、現時点でこの企画が自分たちの手に余ると判断。アメリカ人のシナリオライターを雇ってアイデアを伝え、この映画の脚本を任せて、拠点のベルリンに戻る。そこで待機している間に生まれたのが、ベルリンの街に出て映画を撮るというヌーヴェルヴァーグ的なアイデアだ。『パリ、テキサス』のように長々と時間をかけず、9か月ですべてを完成させる。かくして企画は動き出した。

 「ベルリンの、私の好きな場所を寄せ集めた映画」とヴェンダースは本作について語る。たとえば、歴史あるベルリン市立図書館は、いかにも天使が住んでいそうなたたずまいだったとのこと。また、ティーアガルテンの戦勝記念塔はヴェンダースのジョギング・コースにもなっていたという。物語を紡ぐ以前に、まず撮りたい風景があった。今は存在しない“壁”もまた、そのひとつだったようだ。

 物語を形作るうえで、最初に手を貸してくれたのは戯曲作家・小説家のピーター・ハントケ。アマチュア時代からのヴェンダースの友人で、初長編監督作『ゴールキーパーの不安』(72)は彼の戯曲の映画化だ。『まわり道』でも脚本に協力していた。『ベルリン・天使の詩』には美しいドイツ語のセリフが要ると判断したヴェンダースは、小説を書き下ろしたばかりで疲れ果てていたハントケを口説き落とす。この時点であったのは、簡単なストーリーラインのみ。ハントケは“子どもが子どもだった頃”で始まる象徴的な詩をはじめ、多くの豊潤なセリフを提供した。