THE YELLOW MONKEY、魂の一作『FOUR SEASONS』

引用元:OKMusic
THE YELLOW MONKEY、魂の一作『FOUR SEASONS』

OKMusicで好評連載中の『これだけはおさえたい邦楽名盤列伝!』のアーカイブス。今回はTHE YELLOW MONKEYを取り上げたい。実のところ「そろそろ邦楽名盤列伝でイエモンってどうスか?」とその名はリストアップされていたものの、正直言って、どのアルバムで書くか大分迷っていたところである。ファンの間でも1作品だけ選ぶとなると意見が分かれるのではなかろうか。コンセプト作である3rdアルバム『jaguar hard pain』もいいし、吉井和哉(Vo)本人が最高傑作と自負する6th『SICKS』もいいし…と良く言えば逡巡、悪く言えば逃げていたわけだが、事ここに至って、そうもいくまい。またも独断と偏見で…だが、バンド初のチャート1位獲得作品、5thアルバム『FOUR SEASONS』を推してみたいと思う。
※本稿は2016年に掲載

ファン大歓迎の復活劇

THE YELLOW MONKEY(以下、イエモン)の再結成は、某人気女性タレントの不倫騒動という下衆な話題一辺倒で辟易とさせられていた中、ひと筋の光明が差し込んだような前向きなニュースであった。謎のサイト、repusmyt.comにてカウントダウンが始まり、「1月8日に何らかの発表があるぞ!」とネット上で噂が広がっていたこともあって、その前日からSNSを注目していた。日付が1月8日に変わる頃からTLがざわつき始め、再結成が発表されると、「やった! イエモン復活!」「ツアー、絶対に行く!」といった書き込みを目にすることができた。そのほとんどが手放しの大歓迎で、解散発表から12年、依然多くのリスナーから支持されているバンドであることを見せつけられた。

意外に伸び悩んだデビュー期

作品解説の前に若干、初期イエモンに対する総評を付しておきたい。東洋人に対する蔑称をバンド名にしながらもメンバー全員が180センチ前後の長身とルックスだけでも大物外タレのような風格で、そこから来るスケール感の大きさも彼らの魅力だが、デビュー当初は必ずしもそうしたイメージばかりではなかった。

というか、周りからはそんなふうに扱われていなかった記憶がある。メイクは後年よりも濃かったことは事実だが、ビジュアル系バンドが後にカジュアルに変化するほどの大きな変貌があったわけではないにもかかわらず(変貌と言うなら『jaguar hard pain』リリース時に吉井が丸坊主になった時の衝撃が大きかった)、誤解を恐れずに言えば、どこか“キワモノ”扱いをされているところもあったように思う(初期の初期は半笑いで対応したメディアもあったような気もするが、その辺はうろ覚え)。それは、彼らがデビューした1992年の音楽シーンは所謂ビーイングブームの最中で、その後に小室ブーム、ビジュアル系ブームを迎えようとする時期ではあったが、今ほど多様性がなかったことに起因していたのかもしれない。

当時、吉井の作ったメロディーは今聴いても汎用性が高く、ヒットポテンシャルは後年と遜色はなかったと思うが、デビューしてから数年イエモンのセールスは伸びなかった。ライヴでの観客動員は悪くなく、1994年には日本武道館公演を実現させているから、さすがにレコード会社との契約が打ち切られるようなことにはならなかったが、単に売上げ面だけで見たら凡百のバンドと違いはなかったと言える。それがメジャーデビュー3年目、1994年までのイエモンだった。

そのセールスの伸び悩みに対しては当のメンバーたちも忸怩(じくじ)たる思いを抱えていたようではある。3rd『jaguar hard pain』リリース後、イエモンは大衆を意識した方向へと舵を取る。この時、「10万枚で終わるバンドになるか、チャート1位を目指すのか?」とスタッフから詰め寄られ、メンバーが「チャート1位です!」と答えたという逸話もある。1994年2月発売の「悲しきASIAN BOY」も十分に大衆性を湛えた楽曲だったが、同年7月発売の4th「熱帯夜」、1995年1月発売の5th「Love Communication」と意欲的なシングル作品を連発。それらの作品で待望のシングルチャートインも果たし、続いて同年2月にリリースした4th『smile』では見事にアルバムチャートトップ10入りも成し遂げる。その後、同年7月の「追憶のマーメイド」はトップ20入り、9月の「太陽が燃えている」はトップ10入り、そして11月に発表された5th『FOUR SEASONS』でついに念願のチャート1位を獲得する。