“演歌の女王”八代亜紀「半端ないぐらい歌い続けていく」 デビュー50周年記念シングル発売

引用元:スポーツ報知
“演歌の女王”八代亜紀「半端ないぐらい歌い続けていく」 デビュー50周年記念シングル発売

 歌手の八代亜紀(69)が、11日にデビュー50周年記念の特別企画シングル「明日に生きる愛の歌/ワタシウタ」を発売する。9月で芸能生活50年。圧巻のハスキーボイスで日本の心を歌い続けてきた“演歌の女王”は「自分で好きな道を選んだのだから。大事に歌っていかないと」と語る。半世紀の歩みと、出世作「なみだ恋」や代表曲「舟唄」「雨の慕情」など名曲の思い出を聞いた。(加茂 伸太郎)

 「10週勝ち抜かなかったら『八代亜紀』を捨てる。歌手をやめます」。ラストチャンスで挑んだオーディション番組「全日本歌謡選手権」が、八代の歌手人生の転機になった。

 勝ち上がる度に、公開収録のある大阪近郊のホールに足を運んだ。71年に「愛は死んでも」でデビューしたが1年間、鳴かず飛ばず。当時22歳。スターダムにのし上がろうと必死だった。

 「売れない新人は飯を食うな…なんて言われた時代。地方のキャバレーでキャンペーンをした後にオーディションに行くもんだから、(喉が)疲れちゃって声なんて出ない。緊張で水も喉を通らない。毎週、落ちたなって。賭けでしたね」

 船村徹さん、平尾昌晃さんら審査員の表情は今も目に焼き付いている。「船村先生は下を向いてね、『う~ん…』と一瞬渋い顔をされた後、顔を上げて『いいね~』って言うの。これが本当にうれしかった。『疲れ果てて声が出ないんだね』って見透かされていたんでしょう。優しい言葉だった」

 一方で辛辣(しんらつ)な審査員もいた。淡谷のり子さんだ。「淡谷先生は『あなた、嫌い』って(笑い)。勝ち上がった10週間、『あなた嫌い』『あなた嫌い』って言われ続けたの(笑い)」。結果は10週勝ち抜き、グランドチャンピオンに。知名度は全国区になり、その後に出した「なみだ恋」がヒットし、道が開いた。

 テレビ、ラジオが娯楽の中心の時代、これが予期せぬファンを生み出す。「歌謡選手権の7週目ぐらいから、トラック野郎たちの追っかけが始まったの。毎週、評論家先生にきついことを言われるから『俺たちが八代亜紀を守る』っていう団体までできて。『何でも言ってこい』なんて言って、移動の時にトラックが何台もついてきたの(笑い)」

 気付けば“トラック野郎の女神”になり、77年に人気映画シリーズ「トラック野郎・度胸一番星」(主演・菅原文太)の出演まで果たす。製作・配給の東映からはマドンナ役のオファーを受けたが、トラック野郎から「八代亜紀と俺たちの距離が埋まらない。トラック仲間として出してほしい」と要望され、女性トラッカーの紅弁天役に変更された。「空き時間には大きなトラックが囲ってくれていた。オヤジの跡を継いだとか、あの時の子供ですとか、今は2世が多い。この間のコンサートで3世にも会ったの。大勢の人に支えられているなと実感しています」

 12歳の時、父親が買ったジュリー・ロンドンのLPレコードを聴き、クラブシンガーに憧れを抱いた。初めて人前で歌ったのは中学卒業後、故郷・熊本のキャバレーだった。「父親が会社を作って苦労していた時期。『一流シンガーになってお父さんを助ける』、その一心よね。ただ、内緒で通っていたのが3日でバレて『親不孝娘』『不良はいらん』と言われ、家を追い出されたわ」

 その後上京。音楽学校に通いながら、新宿の美人喫茶(大人の雰囲気の喫茶店)で働き学費を稼いだ。その頃スカウトされ、グループサウンズのボーカルをやった時期もあった。「ギャランティーなし。楽屋が芝生で、昼ご飯はスティックのチーズが3本だけ。続かないよね。お金ないもん」。銀座に移ると、クラブ歌手に。「5、6人のスカウトマンに追っかけ回されたけど、眼中になかった。生意気だったの(笑い)。最終的には『亜紀ちゃんの歌声を全国に届けて』とクラブのお姉さんたちに背中を押されて、レコードを出すことにしたわ」。デビュー後は月給は20万円から5万円に激減し、貯金を切り崩す生活。「全然売れなかった。1か月のうち29日は地方キャンペーン。そういうつらい時代があったから、今があるのね」と懐かしんだ。

 代表曲の一つが阿久悠さん作詞、浜圭介さん作曲の「舟唄」(79年)。初めて紅白歌合戦の大トリを務めるなど思い入れも強い。八代は「この歌は机の中に埋もれていたのよ」と笑う。

 レコード会社のテイチクが「これまでの『行かないで』『待っています』とは違う、阿久先生から見た八代亜紀の女心を書いてほしい」と依頼。数日後、何十曲の詞が阿久さんから用意されたが、テイチクは「今までもこういう歌はありました」と全てボツにした。「阿久先生ひどく怒ってね。机の引き出しから『これはどうだ!』と置いたのが『舟唄』だったの」。もともとは美空ひばりさんの曲を書く雑誌の企画で作ったものが、運命のいたずらで八代のもとへ。「私の初めての男歌になった。この歌の力はすごい。私にとってはクラシック(=芸術音楽)と同じ(高貴なもの)です」

 もう一つの代表曲は「雨々ふれふれ もっとふれ」のサビが印象的な「雨の慕情」(80年)。同じ阿久、浜のコンビで初の日本レコード大賞、NHK紅白歌合戦で2年連続の大トリを務めた。「日本歌謡大賞と合わせて3冠王。阿久先生の思う八代亜紀の『女心』が描かれているのね」

 実は発売前から売れる予感があった。「両親に曲を聴かせたら、遊んでいた1歳8か月のおいっ子が『アメ、アメ』『アメ、アメ』って。これは大ヒットするなと思いましたね」。左の手のひらを空に向けるサビの振り付けも話題になったが、天候も味方した。その年の東京の年間降水量は1577ミリ(77年・1454ミリ、78年・1030ミリ、79年・1453ミリ)で、雨の多い年だった。「プロ野球の試合で雨が降ると、選手がベンチから手を出してマネしたみたい。(中継を見た)子供たちは砂場で遊びながら歌っていた。社会現象になった実感はありました。よく聞かれるけど、あの振り付けは自然と出たものよ」

 半世紀にわたる音楽活動を、八代は「50年っていう実感が全然なくって」と語る。「日々楽しくて仕方がない。今は(以前より)もっと元気なの。その理由は人ね。周りに頼れる人がいてくれる。安心感があるから」と周囲のサポートに感謝。「眠くなれば寝るし、食べたいものを食べる。特別なこだわりもない。ダイエットもしない。どれがストレスかも分からないわ」と笑い飛ばした。

 目指すは生涯現役。「各地にコンサートにうかがうと、たくさんの方が楽しみに待っていてくれる。それがエネルギーの源。この先も半端ないぐらい(の本数を)歌い続けていくわ!」

 ◆絵を描きリフレッシュ

 趣味の絵を描くことが、八代のリフレッシュ法。世界最古の美術展、フランスの「ル・サロン」で5年連続入選し、永久会員になるほどの腕前だ。「歌で肉体労働するじゃない。そうすると、体が疲れてくる。体のケアには心のケアが大切な気がするの」と説明。「絵が心のマッサージをしてくれる。心も頭もリフレッシュできちゃう。絵を描くと、子供に戻れるんです」と効果を話した。

 ◆八代 亜紀(やしろ・あき)本名・増田明代。1950年8月29日、熊本・八代市出身。69歳。71年デビュー。ヒット曲に「愛の終着駅」「もう一度逢いたい」「おんな港町」。2010年文化庁長官表彰。13年ニューヨークの老舗ジャズクラブ「Birdland」でライブを開催。15年ブルースアルバム「哀歌―aiuta―」を発売。16年日本モンゴル文化大使に就任。18年モンゴルから北極星勲章を授与される。 報知新聞社