日本のロックを創生した村八分、唯一のオリジナル作『ライブ』

引用元:OKMusic

OKMusicで好評連載中の『これだけはおさえたい邦楽名盤列伝!』のアーカイブス。今回は村八分の『ライブ』を紹介する。結構なロック好きで知られる女優の成海璃子が数年前にバラエティー番組で自室を紹介した際に、彼女の私物CDとしてINUやTHE STALIN、筋肉少女帯、高田渡、はっぴいえんどなど、日本のロッククラシックが取り上げられ、それらに交じって本作が紹介されたことがネットでちょっとした話題になったことがある(その他、あぶらだこや猛毒もあったというから彼女は筋金入りであるようだ)。楽曲はおろか、そのバンド名が放送自粛対象だったりするので電波メディアで取り上げられることが極めて少ない村八分であるが、日本語のロックを確立させたレジェンドのひとつである。そんな彼らの唯一のオリジナル作を取り上げたい。
※本稿は2015年に掲載

R&Rに日本語を乗せたバンドの先駆け

バンドの中心人物、柴田和志(Vo、通称:チャー坊)が「俺らを伝説にされるのはごめんやわ」と言ったという逸話があるとのことで、こう言うのも憚られる感じだが、こと日本において村八分ほど“伝説”と呼ぶに相応しいバンドもいない。1969年から4年の活動期間の中で発表したアルバムはライヴ盤1作品。しかも、リリース直後にバンドは解散。チャー坊がインタビュー嫌いだったという説もあり、活動中のメンバーの肉声はほとんど残っておらず、後に山口冨士夫(Gu)が著作『村八分』でその活動を振り返っているものの、チャー坊、山口を始め初期メンバーのほとんどが鬼籍に入られたこともあって、現在、村八分を検証するのはかなり難しい。もっともこのバンドの音楽性が愚にも付かないものであれば、伝説以前に語る価値すらないわけだが、日本ロックシーンを検証するうえでも村八分の存在はこの上なく大きいのだ。

日本のロックが確立された時期には諸説あろうが、おそらくはっぴいえんど辺りをその始祖と捉えることに異論は少なかろう。1966年のザ・ビートルズ来日公演以降、その影響も手伝って国内で流行したグループ・サウンズ。その衰退期であった1970年前後に活動を開始したジャックス、フラワー・トラヴェリン・バンド、サンハウス、頭脳警察、四人囃子、あるいは当時はまだアコースティック編成ではあったものの、RCサクセションもそうであろうし、この村八分も元祖・日本のロックバンドと言える存在だ。グループ・サウンズも欧米のヴォーカル・アンド・インストゥルメンタル・グループの流れを汲むもので、形態としてはロックバンドと変わらないものも多かったが、当時は未だレコード会社の意向が強く反映されており、会社専属の作曲家、作詞家によって作られた楽曲を演奏するバンドも少なくなかった。つまり、自らの演奏に自らの言葉を乗せたオリジナリティーのある音楽…今となっては当たり前とも言えるスタイルは彼ら先達によって進められた(その先に日本語か英語かの「日本語ロック論争」もあったというが、それは別項に譲る)。

はっぴいえんどが日本語を巧みにメロディーに乗せロックはフォークにも歌謡曲にもなり得ることを証明した一方、村八分はザ・ローリング・ストーンズに代表されるエッジの立ったR&Rに、そのサウンドが醸し出す雰囲気を損なうことなく、日本語を乗せたバンドの先駆けであったと思う。チャー坊は、これまた海外ロック史での伝説的なライヴ、オルタモントでのフリーコンサート(演奏中に観客が殺害される事件、俗に言う“オルタモントの悲劇”が起こったザ・ローリング・ストーンズ主催公演)を観に行くほどであったというから、村八分のサウンドはもろにザ・ローリング・ストーンズの影響を受けている。ザ・ローリング・ストーンズのルーツでもあるチャック・ベリーの匂いも濃い。時にソリッドに、時にルーズに響かせる山口冨士夫のギターは、その歪んだ音こそワイルドだが、案外生真面目というか、しっかりと鳴らされている印象で、テクニックだけで言えば、本家、キース・リチャーズ より幾分上手いのではないかと思うほどである。正直言って、アルバム『ライブ』収録曲はリズムがぶれている箇所が多々あるが、青木真一(Ba)は村八分参加以前には音楽活動の経験がなかったというから、メンバーのキャリア差からすればこれは致し方ないといったところだろう。ただ、その演奏は緊張感あふれるテイクばかりで、だからと言って聴きどころがないというわけではない。