相棒の仙之助死去 親身になってくれた紙切りの林家正楽さんのおかげで…

相棒の仙之助死去 親身になってくれた紙切りの林家正楽さんのおかげで…

【太神楽 鏡味仙三郎 大いに語る】#7

 2001年4月、相棒の仙之助が食道がんで余命3カ月を宣告された。当人には隠した。5月には退院し、仙之助・仙三郎は高座に上がり続けた。

「連日の寄席出演は体力的に無理でしたけど、5、6回は仕事をしましたか。9月11日に仙之助の親友で落語家、三遊亭小金馬さんの会に助演で出ました。『そこには絶対に行く』と前々から言ってましたので、気力で余命を半年に延ばしたようなもんです。『無理しないで、高座に顔を出すだけでいいから』と言ったんですが、本人がどうしてもと言い張って、花笠の曲取りをやった。無心になると痛みを忘れるもんなんですね。その夜、帰宅したとたんに倒れて病院に運ばれ、翌朝の5時に亡くなりました。9・11、アメリカで同時多発テロが起こった朝です」

 前夜まで曲芸を演じたのだから、太神楽師の職を全うした最期と言える。1人になった仙三郎は落ち込んで、太神楽師を続けるべきかどうかとまで悩んだという。

「そんな時、親身になって相談に乗ってくれたのが、紙切りの林家正楽さんです。持つべきものは友達で、ありがたかったですねえ。彼がいなかったら、やめていたかも知れません」

 太神楽は2人か3人でやるものだから、仙三郎は弟子の仙志郎(当時は仙一)と高座に上がった。仙志郎は仙三郎の長男で、1993年に18歳で入門していた。

「アニメーター志望で、アニメの専門学校に入って勉強してましたが、あの世界も大変らしく、あきらめて入門したんです。あたしが出した条件は、落語家の前座と同じように、寄席の楽屋で働いて修業すること。これがよかった。まず、行儀作法を覚える。それと、皆さんに名前を覚えてもらえる。仙之助・仙三郎はどっちが仙三郎か、なかなか覚えてもらえませんでしたから。それに落語の稽古をしたことで、太神楽の口上がうまくなった。これは大きいですね。3年間前座修業するところ2年で免除してもらい、本格的に太神楽師の修業をしてる時期に仙之助が亡くなったわけです」

 さらに仙三が入門し、2002年4月から鏡味仙三郎社中として、3人でやっている。

「仙三は国立劇場太神楽研修の第2期生です。この研修制度は業界にとってありがたいものでした」 =つづく

(聞き手・吉川潮)

▽鏡味仙三郎(かがみ・せんざぶろう)1946年、岩手県盛岡市出身。55年に12代目家元・鏡味小仙に入門。前座名「盛之助」。57年、池袋演芸場で初舞台。73年に故・鏡味仙之助とコンビ結成。2002年、鏡味仙三郎社中を結成。趣味はゴルフとオートレース。近著に「太神楽 寄席とともに歩む日本の芸能の原点」(原書房)がある。