「米軍基地キャンプのアメリカ人はマナーが良かった」【太神楽 鏡味仙三郎 大いに語る】

「米軍基地キャンプのアメリカ人はマナーが良かった」【太神楽 鏡味仙三郎 大いに語る】

【太神楽 鏡味仙三郎 大いに語る】#4

 太神楽はしゃべり芸ではないので、落語よりも寄席以外の仕事が多い。

「10代、20代はキャバレー、デパートの屋上のアトラクション、それから米軍基地キャンプ回りですね。キャンプは軍人さんとその家族が客ですが、アメリカ人は家族でショーを見る習慣があるみたいで、マナーが良くて、いい間で拍手をしてくれる。バンドが入ってるのでドラムソロに合わせてやったりもしました。入間や横須賀の基地に行くと、楽しみは食事です。うまそうな肉がたっぷりあって、市販される前のコーラを初めて飲んだのも基地でした」

 1966年に小仙の相棒の小金が亡くなって、寄席の看板は「丸一小仙社中」になった。丸一というのは屋号で、鏡味は姓である。小仙、盛之助改め仙三郎、仙之助、3人の社中だ。

「7年間、3人で舞台に立ち、獅子舞もいろんなところでやりました。そして、73年に一本立ちが許され、『仙之助・仙三郎』として寄席に出ることになりました。寄席の看板に名前が出た時はうれしかったですねえ。これで名前を覚えてもらえると。太神楽は曲芸をやる太夫と口上を述べる後見とに役割が分かれてますが、あたしと仙之助はともに芸ができるし、技量が同じくらいでしたから、役割を分けずに交互に、または一緒にやりました」

■木曜スペシャル

 コンビ結成当時から2人が得意としたのは毬の曲芸だった。

「当時売れっ子だった海老一染之助・染太郎師匠が、口にくわえた撥の上で土瓶を回す芸を売り物にしてましたから、うちは毬でいこうと。毬を回しながら右手から左手へ移す『衣紋流し』の基本は胸の前を通すんですが、あたしたちは、肩から頭の上を通過して反対の手に移すようにしました。これをやる時には口上を述べます。『普段はやらない芸ですが、今日は木曜日だから特別にやります。木曜スペシャル!』って。その日の曜日に変えるだけですが、必ず受けましたね。NHKに出た時だけ『NHKスペシャル』と変えましたが(笑い)」

 撥の上に毬をのせて回したり、2本の撥で毬を挟んで1本を取ると、毬が撥にくっついているように見える芸も見事だった。

「撥の上で回すのは土瓶より毬のほうが難しいんです。でも、割れ物だから土瓶のほうが受ける。面白いもんですね」

 いつ、どこでも受けた。 (つづく)

(聞き手・吉川潮)

▽鏡味仙三郎(かがみ・せんざぶろう)1946年、岩手県盛岡市出身。55年に12代目家元・鏡味小仙に入門。前座名「盛之助」。57年、池袋演芸場で初舞台。73年に故・鏡味仙之助とコンビ結成。2002年、鏡味仙三郎社中を結成。趣味はゴルフとオートレース。近著に「太神楽 寄席とともに歩む日本の芸能の原点」(原書房)がある。