そこに「生きる意味」があるから…73歳・たけしの再婚を心から支持する理由

引用元:スポーツ報知
そこに「生きる意味」があるから…73歳・たけしの再婚を心から支持する理由

 昭和、平成、令和を駆け抜けてきたお笑い界の超大物の再婚が明らかになった。

 昨年6月、39年間連れ添った妻・幹子さん(68)と協議離婚したばかりのビートたけし(73)が8年前に知り合った18歳年下の一般女性・Aさんとの再婚に踏み切った。すでに都内の自宅で同居中の最愛の人と第二の人生を歩むことを決めたのだ。

 たけしは8日夜、TBS系「新・情報7days ニュースキャスター」(土曜・後10時)で結婚を生報告。同局の安住紳一郎アナウンサー(46)とともに登場すると、冒頭で「オレも黙っていたんだけれど、兄貴とか姉ちゃんに『ちゃんとしなさい』って怒られて。『あんたはそういうところがダメなんだ。あの子はすごい、いい人なんだから。おまえみたいなやつと一緒になってくれる人なんていないんだよ』と、散々怒られまして」と照れ笑い。

 「目指すは所(ジョージ)の夫妻。あれくらい幸せになりたいな」と続け、安住アナから披露宴について聞かれると、「やると思いますけれども、その頃にはみなさん、スケジュールが大変だから隠れて…。養老乃瀧(居酒屋)でやりたいと思います」と、照れ隠しのギャグを飛ばした。

 今回の再婚について同日、所属事務所「T.Nゴン」が「結婚したのは事実です」と認めた。Aさんは18年4月、「オフィス北野」(現TAP)を退社した、たけしが社長として設立した同事務所取締役に就任したビジネスパートナー。マネジメントも全面的に任せている。

 幹子さんとの離婚判明直後の「ニュースキャスター」では、再婚について「ないよ。再婚したってしようがねぇもん」と断言。「と言ってて、するかも分かんないよ。山里(亮太)の例もあるから。林家パー子と再婚かなんかして、大騒ぎしてやろうかと。ペーさんが訴えたりなんかして、泥沼合戦。お笑いウルトラクイズだ」などと話していたが、前言を翻した形となった。

 1980年に結婚(婚姻届提出は83年)。別居期間も長かったが強気の性格でそのタレント活動を支え、1男1女を立派に育て上げた幹子さん。86年12月のフライデー襲撃事件での逮捕、生死の境をさまよった94年8月の原付バイク事故など、数々の試練を乗り越えてきたパートナーとの覚悟の別れと唐突にも思える再婚劇には「長年支えた妻を捨てての老いらくの恋」「70歳を超えて、恋に狂うなんて」「たけし、老いたり」などの批判の声も確かに多いが、私は全くそうは思わない。

 「Aさんというかけがえのない存在を得たがゆえに、たけしは、この先も生きていける」―。97年9月、「HANA―BI」で第54回ベネチア映画祭の最高賞・レオーネドール(金獅子賞)に輝くなど、映画監督として世界のトップを走り始めた、たけしのもう一つの顔である映画監督・北野武に番記者として密着。以来、トップタレントと映画監督という二つの顔を持つ多忙な大物の背中を追い続けてきた私は心の底から、そう思う。それほどの「もろさ」「危うさ」が、この大物には常につきまとってきた。

 99年8月24日、最愛の母・さきさん(享年95)の通夜後の会見では、「本当にたけしさんのことだけを考えて生きてくれたお母さんでしたよね?」という女性リポーターの問いかけに「俺の見ていた母親はいつも働いていて、いつも泣いていた親だったからさ…。感謝してる…」。そう絞り出したとたん、私の目の前で「うう~…」と泣き崩れそうになった。「オレは世界一のマザコンだからよ」と常々、口にしてきた通りの母への思いがあふれた無防備すぎる一幕だった。

 フライデー襲撃事件の原因は、当時交際していた21歳の女性への同誌記者の強引な取材に感情のコントールを失ったからだった。生死の境をさまよったバイク事故も自身の監督作品への酷評に悩み抜いた末の自殺未遂という見方が根強い。

 前所属事務所・オフィス北野の森昌行前社長(67)とたもとを分かつことになった独立騒動の原因も天才ゆえの独特の「孤独感」にある。映画監督とプロデューサーとしてもベストの関係だった盟友への信頼が金銭面での裏切りによって失われてしまったというのが、大方の見方だ。水面下で新作映画のプランは進んでいるが、森氏とのタッグ時ほどの作品が果たして生み出せるのか。私は大いに疑問に思う。

 森氏だけではない。たけしはここ数年、大切な存在を失い続けてきた。最大の喪失は昨年2月、急性心不全のため、66歳で急死した大杉漣さんだろう。

 93年の「ソナチネ」から始まり、17年の「アウトレイジ 最終章」まで全10作品でコンビを組んできた盟友の死の直後、生出演したテレビ番組で、たけしはこう言った。「すごい不謹慎だけれど、一番いい時に死んだんじゃないかなと思うんだよね。(売れなくなっての)芸人の末路は嫌だなと思うし、一番、輝いて忙しくていい時に漣さん、いい思い出でいたって感じがして。それを言っちゃうと怒られるんだけれど。自分のことを考えれば…。うらやましいって言っちゃえば失礼だけれど、良かったねって言っちゃうね」。死の直前まで出演ドラマ「バイプレイヤーズ」を撮影していた大杉さんの“現役バリバリ”での急死を独特の表現で悼んでいた。

 「俺は映画で成功してもお笑いは一生、絶対にやめない。笑いとシリアスは最大のテーマ、生と死ということでもあるんだよ」―。そんな言葉を聞いたのは、97年9月6日の深夜、「HANA―BI」のレオーネドール受賞直後でのことだった。日本人として39年ぶり3人目のグランプリ監督となった「世界のキタノ」は受賞パーティーの行われたベネチア・リド島唯一の中華料理店に密着取材をしていた私を招いてくれた。

 テーブルの正面に座った、たけしが、しこたまワインを口にした後、ポツリとつぶやいたのが「笑いとシリアスは最大のテーマ、生と死ということでもあるんだよ」という言葉だった。

 そう、23年前から全く変わらず、その心の中核には常に「メメント・モリ(ラテン語で『死を想え』)」という言葉が横たわっている。たけし語録の中でも有名な「振り子の理論」がある。すなわち、映画監督・北野武とお笑いタレント・ビートたけしは笑いとシリアスの両極端を振り子のように連れ動く存在、両方に振り切れながらも絶妙にバランスを取っているというものだが、「生の喜び」の裏には常に「死の恐怖」が隣り合わせに存在しているという意識の裏返しでもある。

 実際、多くの北野作品で、たけし演じる主人公は心のバランスを崩し、自死を選ぶ。「ソナチネ」では自分たちを利用したヤクザ組織の大物たちを皆殺しにした上で拳銃自殺、「HANA―BI」では対立組織を根絶やしにした末に、ともに逃避行した不治の病の妻を撃った上で心中自殺。「BROTHER」では、追い詰められた末に取り囲んだ無数の敵の前にたった1人で飛び出し、無数の銃弾を浴びるという事実上の自殺を遂げている。大杉さんとの最後の仕事となった「アウトレイジ 最終章」のラストシーンも、また…。

 数多くの作品のラストシーンに格好悪く生き延びるくらいなら潔い死を選ぶという独自の死生観が描かれているのは事実。そして、自身の生と死の間でさえ不安定に揺れ動く等身大のたけしが、そこにいる。

 そんな死生観を持つ73歳の大物タレントが39年間連れ添った糟糠の妻と別れてまで、100億円とも言われる巨額の財産分与をして裸一貫になってまで選んだのが、最後に愛した女性との「自分らしく生きる」余生なのではないか。

 昨年の大みそか、初めて歌手として出場した「第70回NHK紅白歌合戦」で、たけしが数々の持ち歌の中から選んだのが、「浅草キッド」だった。72年、明大工学部を中退(除籍)して飛び込んだ東京・浅草のフランス座での下積み時代を丁寧に曲にした自身作詞・作曲の1曲。時間にして4分間。アコースティックギターだけの伴奏を背に、たけしは最大の特徴である、かすれ気味の、でも、とても味のある声で切ないバラードを歌い上げた。

 「夢は捨てたと言わないで 他に道なき2人なのに」―。サビのこの歌詞の「2人」こそ、たけしとAさんなのではないか。

 「紅白」終了後のぶら下がり取材で激動の昨年を振り返って、たけしはこう言った。「私はいかにも芸能人らしく、離婚もあり、なんでもあります。いかにも芸能人ですね。一番ひどい目に遭いました」―。

 そう、昨年、古今亭志ん生役でレギュラー出演したNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」やバラエティー番組では、しばしば、その滑舌の悪さが話題にされ、「たけし老いたり」などの見出しも躍った。

 実は誰よりも繊細な大物が、これらの評判を耳にして、何も思わないはずがない。そんな深く傷ついた、たけしをこの8年間、すぐそばで慰め続けたのが、Aさんなのではないか。

 そう、常に亡き母・さきさんの代わりになるような女性を求め、癒やしとし続けるのが、たけしの人生。長年追いかけてきた私は、そう思う。偏った見方かも知れないが、常に心に危うさを秘めている、この超大物がこれからも普通に生き続けるためにも、Aさんの存在は絶対、必要なのだと思う。

 だから、たとえ「老いらくの恋」とからかわれたとしても、生涯、支えてくれる人を得た今回の再婚劇を私は心から支持する。どこまでも破天荒なたけしのいない芸能界なんて、本当につまらないと思うから。(記者コラム・中村 健吾)

 ◆ビートたけし 本名・北野武(きたの・たけし)。1947年1月18日、東京・足立区生まれ。73歳。明大中退後の73年にツービート結成。フジテレビ系「オレたちひょうきん族」などで活躍。89年に「その男、凶暴につき」で映画監督デビュー。97年、「HANA―BI」でベネチア国際映画祭金獅子賞受賞、03年の「座頭市」で同監督賞受賞。04年には明大の「特別卒業生認定制度」第1号に選ばれた。 報知新聞社