「新宿カウボーイ」多忙と誤解されバイト不採用…もやしを食べる日々

「新宿カウボーイ」多忙と誤解されバイト不採用…もやしを食べる日々

【役者・芸人「貧乏物語」】新宿カウボーイ

 漫才協会所属で、アンバランスな見た目のお笑いコンビ・新宿カウボーイ。50キロに満たない痩せ形メガネキャラの石沢勤さん(39)は堅実にバイトをこなし、普通の生活を送る一方、でかい体を赤いジャケットで包んだ濃いキャラのかねきよ勝則さん(41)は洋七さんの弟子(?)としてカバン持ちで貧乏をしのいで……。

■「がばいばあちゃん」で大忙しの洋七師匠のカバン持ちをして1万円

石沢 新潟から東京に行きました。まだ芸人の養成所が少なくて、専門学校の東京アナウンス学院でお笑いを始めました。でも、学校のライブでもウケなくて。学校を卒業してからはアルバイト生活でした。たまに親からはお金をもらってましたけど。

かねきよ 「漫才やるなら大阪だろ」と北海道から引っ越して、なんばグランド花月の進行や雑用の係に入りました。もらったのは1日3000円くらい。そこで洋七師匠と出会いまして。22年くらい前、B&Bさんが復帰された頃。大好きになり、いつも舞台袖で見てたら師匠と知り合えました。それ以降は「仕事あるからついてきてくれ」と洋七師匠に言われた時に、カバン持ちでついていきました。「佐賀のがばいばあちゃん」が売れて大忙しで、全国を講演会で回られていて、ついていくとお小遣いに1万円くれたので、助かりましたねぇ。ご飯も食べさせてくれるし、楽屋のお弁当が余ると「持って帰れ」と言ってくれましたから。

■“クビ宣告”で必死にネタ作り

石沢 専門学校時代に今の事務所に入れたけど、5年経っても売れず、上京して同じ事務所にいたかねきよのコンビが解散すると聞き、自分も解散してかねきよと組むことになりました。でも、解散して新コンビを組むのが当時は珍しく、事務所からは「なに勝手なことしてんだ! 前代未聞だぞ。次のネタ見せでクビにするか決める」と宣告され、初めて必死にネタ作りしました(笑い)。

かねきよ その後、大変だったのは「爆笑レッドカーペット」(フジテレビ系)などのネタ番組やドラマにチョコチョコ出ていた時期です。少し忙しくなってバイトに入れなくなり、店の方から「あまり休むと厳しい」と言われ、辞めたんです。他のバイトを探すと、面接する方に「かねきよさんですね? 『レッドカーペット』見ました! バイトされたいんですか?うちは融通利きませんから」と断られた(笑い)。忙しくてあまり出勤しないと思ったようで、どこのバイトも受からずもやしを食べる日々でした。

石沢 牛丼屋、マンガ喫茶、コンビニとバイトの王道で、普通に黙々とバイトをこなして。部屋も家賃6万円の普通の1K。中野だったので、芸人が多く住んでいて、歩いていると芸人と会います。僕の悪い性格ですけど、芸人が歩いてると、隠れちゃうんです。あんまり会いたくないんです(笑い)。

かねきよ 洋七師匠に「ついてきてくれ」と呼ばれることは続きましたが、正式には師匠と弟子ではなくて、自然とそういう空気になった感じです。でも、こういう説明が面倒なので、「テレビで洋七師匠のエピソードを話したいんですけど、師匠と言ってもいいですか」と尋ねたら、「ええよ。弟子みたいなもんなんやから」と言ってくれた。今でもたまに「講演会あるからついてきてくれ」と連絡が来ますけど、この2、3年は行けてません。本当は行きたい。

石沢 2012年に漫才協会に入り、主に浅草で、月に10~15本と場数が増えました。春風こうた・ふくた師匠をはじめ、師匠たちにはかわいがっていただき、仕事を振っていただける。「こういう会合があるから漫才やってきてよ」と。ありがたいです。今も週1回はバイトしてますので、しなくて済むようになりたいものです。

かねきよ 漫才協会では理事もやらせてもらっているので、僕らやナイツの世代が漫才協会の寄席を引っ張っていきたいです!

 (聞き手=松野大介)

▽かねきよ・かつのり 1978年3月、北海道生まれ。▽いしざわ・つとむ 1980年6月、新潟県生まれ。2006年に漫才コンビ・新宿カウボーイ結成。「THEMANZAI2012」(フジテレビ系)では認定漫才師50組に選出。