『フォードvsフェラーリ』レビュー

引用元:IGN JAPAN
『フォードvsフェラーリ』レビュー

『フォードvsフェラーリ』の終盤には、レーサーのケン・マイルズ(クリスチャン・ベール)が伝説的な耐久レースが行われる前夜に、自分の精神状態を落ち着けるためにトラックへ赴くシーンがある。これは、ボクサーの物語を描いた1976年の映画『ロッキー』で、主人公がアポロ・クリードとの対戦前日の夜に誰もいない試合会場に行きリング上に立ってみた場面を彷彿とさせる。しかし『ロッキー』では、その時点で視聴者はすでにロッキー・バルボアという男を熟知して彼に関心を寄せ、その勝利を熱望している。一方、『フォードvsフェラーリ』はケン・マイルズへの思い入れを喚起できず、その時点で2時間の上映時間を費やしているのにもかかわらず、視聴者は彼の勝利よりむしろ映画が早く終わることを望むようになっている。
カーレースをテーマとし、自動車産業の巨大企業2社の対決を描いた『フォードvsフェラーリ』は偉大なレーサーに対する探究だが、残念ながらその核心に迫ることができていない。この映画は最終的な到着地点にたどり着くまで――まるでクライマックスのル・マン耐久レースのように――同じところをグルグル回っているだけで、映画の結論も満足のいくものとはとても言えない。
マット・デイモンが演じるキャロル・シェルビーは、レーサーとして成功したのち、心臓病のためにキャリアを終え、現在モータースポーツの舞台裏で活動している人物だ。彼はやがてひどい販売不振に陥ったフォードの目につくようになる。素晴らしい演技を見せて登場するたびに映画を面白くしているトレイシー・レッツによって演じられるフォードの会長、ヘンリー・フォード2世は当時、会社を再生させる方法を必死になって模索していた。

リー・アイアコッカ(ジョン・バーンサル)率いるフォードのマーケティング部門は、フェラーリを勝利と成功の象徴と見なし、アイコニックなル・マン24時間レースでこの無敵にも見えるイタリアのチームを負かす計画を立てる。アイアコッカらはシェルビーが適任な人物だと考え、90日以内に彼独自のエンジニアとレーサーのチームを作り、世界で最も速い車を製造するよう、シェルビーに要求する。
シェルビーは、ケン・マイルズに誘いの声をかける。マイルズはチームの指示にめったに聞かず、理屈っぽい面倒な男だとスポンサーに敬遠されている。性格に難があるマイルズだが、優秀なレーシングドライバーとして、1966年にはデイトナ24時間レースとセブリング12時間レースを立て続けに勝っている。同年のル・マン24時間レースでも勝利すれば、前人未到のモータースポーツ界の“ハットトリック”の達成も可能だ。
十分に描写されていないマイルズの妻、モリー(カトリーナ・バルフ)は、普段から夫を心配したり、文句を言ったり、支えたりしているが、危険なル・マンには参加してほしくないと考える。しかし一方、このカップルは金銭的問題を抱えている。莫大な賞金と、歴史に自分の名前を刻むチャンスに魅了されたケンは、シェルビーからのオファーを引き受ける。

その後のストーリーは、スポーツ映画のありきたりな形となっている。マイルズは車を限界まで持っていきながら、完璧な走りを目指す破天荒なレーサーという役割を担う。対照的に、ジョシュ・ルーカスによって素晴らしく陰険なキャラクターとして演じられるフォードの副社長のレオ・ビーブは、より従順な人間を求めている。感情を爆発させるマイルズを見た後、ビーブはヘンリー2世に「フォードの車には、フォード型のドライバーが必要です。これがフォードのやり方なのです」と話す。そしてシェルビーは板挟みになり、本社の重役たちをなだめながら、気性の激しい友人をなんとかコントロールしようとしている。
ここでの問題は、映画の展開が非常に予測しやすいことである。マイルズがドライバーの座から降ろされたとき、誰もが彼のカムバックを予見できるし、マイルズがレースに負けているときも、彼が後から追い上げてくることは誰が見ても明らかだ。短い期間でマイルズやシェルビーが達成できたことは奇跡と言えるが、その奇跡は必ずしも魅力的な物語には結びつかない。罰ゲームのような長い上映時間の大半において、『フォードvsフェラーリ』はワンパターンに陥ってサプライズに欠けている。

一方、レースシーンの撮影は素晴らしく、エネルギーと力強さに満ちている