ニール・ヤングやブルース・スプリングスティーンから絶大な信頼を得るニルス・ロフグレンのソロ第3作『稲妻』

引用元:OKMusic
ニール・ヤングやブルース・スプリングスティーンから絶大な信頼を得るニルス・ロフグレンのソロ第3作『稲妻』

ニール・ヤングのロック史に残る傑作『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』の録音に18歳で参加し、クレージー・ホースのデビューアルバムにも尽力するなど、ニルス・ロフグレンの才能は若くして認められていた。その後、彼がリーダーとなって結成したグリンは、4枚のアルバムをリリースするも鳴かず飛ばずでソロに転向する。ソロ時代は強力なバック面に支えられ秀逸なアルバムを連発しながらも、なぜか大きな話題にならなかったのが不思議でならない。しかし、ニール・ヤングはことあるごとに彼を起用しているし、ブルース・スプリングスティーンも盟友のリトル・スティーブンがEストリートバンドを脱退するとすぐにニルスを加入させるなど、彼には絶大な信頼を寄せている。すごいのはヤングもスプリングスティーンもロフグレンを一時のサポートメンバーとして考えているわけでなく、彼が活躍できる場さえあれば継続して共演しているところだ。ヤングとの付き合いはもう50年以上で、スプリングスティーンも35年ぐらいにはなるだろう。それだけ、ロフグレンのプレイと人間性に惹かれているのである。今回はサポートメンバーとしてだけでなく、ソロアーティストとしても大きな魅力があることを知ってもらいたいので、彼の3rdソロ作『稲妻(原題:I Came to Dance)』を取り上げる。

ニール・ヤングとの出会い

1951年生まれのニルス・ロフグレンは5歳から楽器を始め、ティーンエイジャーになると地元ワシントンD.Cでライヴ活動をスタートさせている。1968年、バッファロー・スプリングフィールドの解散後、ソロ活動をしていたニール・ヤングのライヴを観に行った17歳のロフグレンは、ヤングの楽屋に押しかけ自作曲を披露し、そこで早くも才能を認められた。ヤングはニルスと彼の3人組グループ「グリン」を西海岸に呼び寄せ、借りていたアパートに3人を住まわせている。

同じ頃、ヤングはソロアルバムのためのバックバンドを探すためにライヴハウスを回り、ウィスキー・ア・ゴーゴーで旧知の6人組、ザ・ロケッツを観て、メンバーのうちラルフ・モリーナ(ベース)とビリー・タルボット(ドラム)、そしてダニー・ウイットン(ギター)の3人をサポートメンバーとして参加するよう要請する。ロケッツはデビューアルバムをリリースしていたが売れなかったし、ヤングはすでにスターであったため選択の余地はなく、彼ら3人はクレージー・ホースとして独立することになった。そして、リリースされたのが『ニール・ヤング・ウィズ・クレージー・ホース(原題:Everybody Knows This Is Nowhere)』(‘69)である。ヤングのソロ2作目となるこのアルバムは全米チャートで34位となり、クレージー・ホースの面々も大いに注目される結果となった。余談だが、このアルバムには「Running Day(Requiem for The Rockets)」という泣ける副題の付いた曲が収録されている。