『D.C.~ダ・カーポ~』制作者が語る“あのころ”──いいと思うものを認めてもらうために誰もが一所懸命で、何もないところから数年でアニメになる時代だった

 平成14(2002)年にサーカスからリリースされた『D.C.~ダ・カーポ~』は、当時の美少女ゲーム作品としてヒットを記録。美少女ゲーム業界新聞『PC NEWS』によれば、初回出荷約3万8000本のセールスで、2002年の年間ランキングで6位に入るものとなった。
 その人気に背中を押されるように、『D.C.~ダ・カーポ~』は積極的なファンディスクの展開や、ライブイベントの開催、さらにはアニメ化を経て、平成10年代を代表する美少女コンテンツのひとつへと成長していった。

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 物語の主人公・朝倉純一は、しっかり者の義理の妹・音夢とふたり暮らしの学園3年生。「かったるい」が口癖だが、じつは魔法の力を祖母から受け継いでいた。
 それは自身のカロリー消費と引き換えに和菓子を手のひらに出現させたり、他人の夢を強制的に見せられたりなどの他愛のない力で、人には秘密にしていたもの。そこに夢で見た、いとこの芳乃さくらが帰国し……。こうして3人の関係性を軸に、華やかな学園の女の子たちに彩られながら物語は描かれていく。

 ある意味王道で、くすぐったさが全体を包み込むこの物語は、癖のないテキストとイメージカラーの青と桜色の爽やかさをまとい、人気を博していったのだ。

 その後、平成18(2006)年には『D.C.II~ダ・カーポII~』が、平成24(2012)年には『D.C.III~ダ・カーポIII~』がリリースされ、いずれも家庭用ゲームソフトやTVアニメという、より広い市場に展開されることで、美少女ゲームファンという括りにとどまらない、幅広い層のファンを獲得していった。

 そんな『D.C.~ダ・カーポ~』シリーズを作品プロデューサーとして、制作からプロモーションまで、すべてを見てきたキーマンがtororo団長である。
 ほかにもプロローグ版の制作に始まり、全国の店舗を巡る地道な販促活動、大小さまざまなイベントでの積極的なファンとの交流、さらにはアニメ展開まで、当時から独特のアプローチで『D.C.~ダ・カーポ~』シリーズを、当時の美少女コンテンツを代表する1本へと成長させていったtororo団長に、そのアプローチ方法やプロデュース論などを語ってもらった。

 そこには『D.C.~ダ・カーポ~』というコンテンツをより幅広い層にアピールし、「多くの人に作品を知ってもらいたい」という純粋な想い、『D.C.~ダ・カーポ~』を応援してくれた多くのファンに対しての強い想い、そしていまだから語れる後悔などがあった。

取材・文/今俊郎

■美少女ゲームから、生身の部分が希薄になっているような気がする

──今回お話を伺うにあたって『D.C.~ダ・カーポ~』の歴史を振り返っていると、このシリーズは「美少女ゲームが盛り上がっていく平成10年代半ばから、その後の市場が厳しくなっていく時期までを通して存在感を示したコンテンツ」だということが解ります。この時期は、制作者であるtororo団長には、どんな時代に見えていたのでしょう?

tororo団長(以下、tororo):
 あのころのお客さん、そして美少女ゲーム業界全体を振り返ると、「自分たちがいいと思っているものを認めてもらうために誰もが一所懸命だった」時期だと思うんです。
 これは、いまでいう承認欲求ともまた違うんですね。インディーズからメジャーになっていく過程でのポジティブな盛り上がりが生み出した熱のようなもの。それをリアルイベントを通じて作り上げていったのがサーカスという組織であり、その原動力になったのが『D.C.~ダ・カーポ~』だったと思います。
 その後『ラブライブ』が登場し、ファンをごっそりと持っていかれるわけですが(笑)。

──(笑)。1作目から10年、平成24(2012)年の『D.C.III~ダ・カーポIII~』で、tororo団長はパッケージゲームのプロデュースから手を引きます。当時のいろいろな想いは後ほど語っていただくことになると想いますが、美少女ゲーム業界から少し離れ、その後業界をどうご覧になっていたのでしょうか?

tororo:
 たぶん求められているものが、とりわけエロじゃなくても良くなってきていますよね。ジャンル自体が細分化したこともありますが、オタク趣味が草食化したということもあるでしょう。

 かつて美少女ゲームが盛り上がった理由には、「秘密の共有」と「青春へのリベンジ」というキーワードが挙げられると思います。具体的には、「オタク仲間」という関係性の中で、お互いの性癖などという秘密を共有しながら、モテなかった青春時代のリベンジを美少女ゲームで果たそうと一緒に盛り上がっていたわけです。ですが、これらは昭和の価値観を引きずったもの。

 ところが平成も20年を過ぎると、そうした人々と価値観を共有していない世代が入ってきます。彼らにとってネットワークはほぼ生まれたときからあるもので、生々しい人間関係はより希薄。
 ですからそうした生身のグループには踏み込まず、コンテンツを外から見ているようになりました。『らきすた』や『けいおん!』などがそうですよね。ネット上では盛り上がっていますが、生身の部分が希薄になっているように思えるんです。

──なるほど。そうかもしれませんね。

tororo:
 バトルもののコンテンツについて面白い話があります。
 大昔は生身の人間が直接戦い、次はメカに搭乗して戦うようになった。そのあと遠隔操作の時代を経て、いまは召喚したものを戦わせてそれを見ていると。
 つまり戦いなのに、主人公がどんどん肉体的な痛みを伴わなくなってきている。僕は、「なるほどそうだな」と思うとともに、美少女コンテンツも、それに近い感覚になってきているような気がするんです。

──コンテンツへの能動的なアプローチが減っているということですか?

tororo:
 ええ。たとえば僕が子どものころは、「そこにあるもので、どうやって遊ぶか」を考えました。公園にボールを持っていったとき、サッカーをやるのかドッジボールをするのかは、その場でみんなで考えた。ときには新しい遊びが生まれたりもしました。
 でもいまは、「こうやって遊びましょう」という枠の中で、どれだけ遊び続けられるかが重要になっている。

──そういうところが、美少女ゲームや美少女コンテンツの変化にも繋がっているわけですね。

tororo:
 でも、しかたがないですよ。人類の寿命が延びていけば、「この短い人生の中で、たくさん冒険して、たくさん恋をして」というような価値観は薄れますから。そういう状況では、エンターテインメントに求められる形も、おのずと変化していくと思います。

──のっけから大きな話となりましたが、今日は『D.C.~ダ・カーポ~』の歴史を追いながら、平成の美少女ゲームの変化と、そのときどきにtororo団長個人が何を考え、どう作品を作っていたのかが伺えれば幸いです。

tororo:
 よろしくお願いします。

■「世界一になれることは何か」と考えてたどり着いたエロコンテンツの世界

──そもそもtororo団長が美少女ゲームに興味を持たれたきっかけというのは、なんだったのですか?

tororo:
 じつは子どものころから、人の「欲望」というものにとても興味があったんです。
 実家が理髪店なので、待ち時間のためのマンガ誌やスポーツ新聞が身の回りにある環境で育ったんですね。ところが当時はエッチな情報もそうしたマンガや紙面に結構あふれていたんですよ。そこに興味を持ったのが最初だと思います。
 ただ、当時はそれが「欲望」だってことを理解しておらず、「この、もやもやする気持ちはなんなんだろう?」みたいな感じでした。

 やがて中学生くらいになると、みんな「自分は何であれば世界一になれるだろう?」というようなことを考えますよね?

──はあ、まあ(笑)。

tororo:
 まあ、僕は考えたんです(笑)。それで、当時は「人の心の動き」にとても関心を持った。だから僕は中学や高校の時分は、カードゲームや麻雀などで遊んでいたんです。

──賭け事に興味を持った?

tororo:
 賭け事といっても、パチンコや競馬じゃない。全員同じ場所にいて、それぞれの心の動きが見えるようなゲームが好きなんですよね。だから同じ麻雀でもネット麻雀には、あまり興味を持てない。

 そういうことをしながら「何だったら世界一になれるだろう?」と考え、「東京に出て麻雀のプロになる」と親に言ったら、「それだけはやめてくれ」と。「だったらゲームを作る人間になるか」と思ったわけです。

──なんだか唐突にゲームの話になりましたが。

tororo:
 僕は1975年の4月4日生まれなんですが、これはビル・ゲイツとポール・アレンがマイクロソフトを創った日(※捉えかたに諸説あり)なんですよ。つまりデジタル時代が始まるエポック・メイキングな日に僕は生まれ、その後のデジタルと歩みを一緒に成長してきたとも言えるわけです。「PCゲームの仕事をしよう」と思うのも必然なのかなと。

──な、なるほど。それでゲーム制作の道に進もう、と。

tororo:
 そこで先ほどの「自分は何であれば世界一になれるだろう?」という疑問に戻ります。

 「数学や物理の授業は好きだけど、それを突き詰めてやり続けるのは無理だ」と思った。麻雀プロになるのは反対された。
 親は家業の理髪店を継いでほしいようだけど、それを続ける自分の姿も想像できない──いまのように地方で仕事をしながら、何かを世界に発信できる時代じゃありませんでしたからね。

 「じゃあ、自分には何が残っているか」と考えたときに浮かんだのが「エロ」だったんです。「エロならずっと勉強していても辛くない……これだ!」と。
 そこで実際に「人間の欲望とは何か」、「どういうときに人は欲情するのか」というようなことを自分で学んでいったんですが、するとたとえば心理学など、いろいろ新しいことに出会うわけです。それが本当に楽しかったんですよ。
 同時にエロ漫画の道も考えたんですが、やはりゲーム世代ですし、インタラクティブなエロコンテンツに興味があったからいまに続く道を選んだわけです。

──それで美少女ゲームの世界が視野に入ってきたわけですね。

tororo:
 ええ。とはいえ田舎の高校生ですから、ゲーム会社にコネもなければ、地元の学校に求人も来ません。
 「だったらまず専門学校に通ってコネクションを作ろう」と決めました。そうして専門学校を卒業した後に、コスモスコンピューターという会社に就職し、ルナーソフトというブランドで働くようになりました。

■見つけ出したPCゲームのヒットの法則

──それでエロゲー制作を始めるんですね?

tororo:
 いえ、最初は一般向けのソフトでしたね。大手から受託して開発する感じです。『ぷよぷよ通』のプレステ版の移植とかやってました。でも、それだと発注元の社内状況に左右されることが多すぎて、何もできないんです。
 やはり好きなものが作りたいなら、自分たちで企画から始めなければならない。ならばと、流通会社と組んで平成10(1998)年に『悶 ーもだえー』という18禁ゲームを作りました。これは7000本くらい売れたかな。翌年には『RISE』という、これまた18禁のゲームを作り、これが累計で1万6000本ほど売れたんです。

──結構売れましたね。

tororo:
 でも、当時の年間ランキングで100位に入るか入らないかですよ。それでも専門誌『E-Login』の「年間でもっとも面白かったゲームランキング」の6位くらいに入ったので、「やりたいことをやれば、それでも伝わるんだな」と手応えを感じましたね。それで独立し、サーカスを立ち上げました。これが平成11(1999)年11月11日ですね。

──覚えやすいですね(笑)。独立した当時は、市場をどのように見ていましたか?

tororo:
 当時の美少女ゲーム業界は社会的な風潮に抗わないようにしているように感じられ、「閉鎖的で卑屈だな」と思っていました。

 そもそも僕は、「欲望とは律するもので、その表現を規制するものではない」と考えています。作品に影響を受けて犯罪行為を行うなんてことはないし、そうならないように自分を律するのが人間ですから。

──エンターテインメントの第一線としてアピールしていないように思えた?

tororo:
 そうですね。「もっと外に広げ、たくさんの人に認めてもらえばいいのに」と。そこからスタートして、「だったら自分の手掛ける作品は売りたい、アニメにしたい」と思うようになっていったんですね。

──サーカス立ち上げの最初から、漠然とそう感じていたんですね。

tororo:
 そもそも漠然と考えるようになったのは『RISE』のころからです。それでその「売りたい、アニメにしたい」という想いを実現するにはどうしたらいいかを考えていたわけですが、サーカスを立ち上げたあとのあるとき、当時の美少女ゲームの「売れる法則」のようなものに気づいたんです。

──それは?

tororo:
 たとえばリーフさんなら、『雫』、『痕』のあとに『To Heart』が大ヒットしました。KeyさんはTactics時代の『MOON』から『ONE』と続いた後に『Kanon』が大ヒットした。ちょっと後ですが、ねこねこソフトさんは『銀色』を出した後の『みずいろ』が大ヒット。

 つまり、いい原画家を起用して「命」をテーマにした尖った作品の後に学園ものを出すと、ユーザーさんに届く。
 これに気付いたのがサーカス3本目の『Infantaria』のときで、そこで命をテーマにした『水夏』に続け、学園ものの『D.C.~ダ・カーポ~』を出すことにしたんです。

──『To Heart』や『Kanon』の成功が大きなヒントだったんですね。

tororo:
 そうですね……うーん……ヒントでもありますが、あの当時は「自分の作品も広く認められたい」という気持ちも強かったですね。それらがアニメ化されたり、コミケで盛り上がっていたりを見ていましたから、やっぱりうらやましかったんですよ。
 ただ、サーカスも着実に前進していました。最初に手応えを感じたのは『Infantaria』の初回出荷版が完売し、通常版を出せたことです。「ここをステップにすれば『水夏』、『D.C.~ダ・カーポ~』もイケるかも」と思いました。

──その『D.C.~ダ・カーポ~』は平成14(2002)年6月28日リリースです。リリース当初から、『To Heart』や『Kanon』のようなメディアミックスは考えていたのでしょうか?

tororo:
 もちろん意識しています。ゲームは僕が枠組みを作り、中身についてはスタッフを交えて組み上げていったもの。
 枠組みの時点で僕が出したアイデアは、基本的にコミカライズやテレビアニメ展開といったメディアミックスを意識したものでした。

 じつはそうした展開は前作『水夏』でも意識していたんです。そのとき「あれもやりたい」、「これも試したい」と奔走していたんですが、「実際に実現するには時間も人もお金も足りない」という状況でした。
 ですが、おかげさまで『水夏』が高評価をいただき、セールス的にも好調でしたので、『D.C.~ダ・カーポ~』では実現できたんですね。

──なるほど。その『D.C.~ダ・カーポ~』の企画や展開を考えたときに、参考や目標にしたコンテンツなどはあったのでしょうか?

tororo:
 企画時に制作チームとして参考にしたものはありませんが、僕がもともと漫画好きで、柳沢きみお、山田玲司、吉田聡などの漫画のように、「「青春の熱量」を作品に込めたかった」と言うのはありますね。
 アニメでは『不思議の海のナディア』ですね。表面的に類似性のようなものはまったく感じられないかもしれませんが、ドラマの意外性や構成の部分では意識していました。

──そういうところに繋がるんですね。リリース当時の平成14年(2002年)は、まさに美少女ゲーム市場が一気に拡大していく時期でした。展開面で、そうした動向は意識していたのでしょうか?

tororo:
 マーケティングやプロモーションはとても考えましたね。とくにタイトルロゴのビジュアルのイメージについて。
 空と海の2色の青を配したタイトルロゴと、空の青から白へのグラデーションの中に桜のピンクを置いたメインビジュアルは、その前にどのキャラが立っていても「これは『D.C.~ダ・カーポ~』だ」と印象付けられるように作ったイメージです。

 これが成功したから、プレイステーション版の『D.C.P.S.~ダ・カーポ~プラスシチュエーション』でピンクの熊を着たヒロインが出てきても、『D.C.~ダ・カーポ~』として成立したんです。
 これがピタッとはまったので、『D.C.~ダ・カーポ~』だけでなく、現在の『D.C.4~ダ・カーポ4~』まで、17年を経てもブレないイメージが確立したんだと考えています。それと主題歌ですね。これらの組み合わせがあれば、お客さんがみんな「『D.C.~ダ・カーポ~』だ」と感じてくれるんです。

──確かに揺るがないイメージがありますね。

tororo:
 そのイメージを定着させるためにも、いろいろなことを考えました。平成10年代半ばは、周辺の大小さまざまなものを含めれば、1年間に700本や800本……もっとかな、それだけの美少女ゲームが出ていたんです。その中で埋もれないようにするにはどうすればいいか。そのひとつとして、「店頭から商品を切らさない方法を考えよう」としたんですね。

 初期ロットが店頭で品切れしたら二次ロット、三次ロットと間髪入れずに出していく。しかもパッケージデザインを変え、新たに特典を付けることで、店舗さんに「これならまだ売れる」と思ってもらうようにする。
 その結果、「曲芸商法」なんて言われたりもしたんですけどね(笑)。でも出し続ければ、ショップはポスターなどを貼り続けてくれるんです。そして商品があれば、お客さんは「買うか買わないか」を決めることができる。もし商品が切れていたら、お客さんは選択すらできませんから。

──当時はまだ美少女ゲーム取扱店も多く、そういった店舗展開も有効だったんですね。

tororo:
 それもありましたね。あの時期だからできた曲芸商法なんですよ(笑)。

──店舗展開といえば、『D.C.~ダ・カーポ~』から、発売日に向けて全国で店舗イベントを継続的に行っていましたね。

tororo:
 そうですね。サーカスは全国巡業が販促の大きな柱になりました。
 ただ、僕の中では、全国巡業は営業活動ではないんです。僕は全国のお客さんと友だちになりたかった。友だちが一所懸命作った作品がそこにあれば買いたくなるし、ほかの人に薦めたくもなるじゃないですか。そういうコミュニティーを、全国の店舗さんごとに作りたくて、店舗イベントを始めたんです。

 だからほかのスタッフにも「広報営業活動じゃなくて、お客さんと友だちになってきて」と言っていましたね。最終的には海外も回ったりしていますが、それでも僕は最後まで「友だち」になりに行っていたんですよ。

──それは『D.C.~ダ・カーポ~』という作品があってこそ芽生えた思いだったのですか?

tororo:
 いえ、「ファンと交流したい」という思いは、ずっと前から持っていました。『RISE』のWebページに掲示板を設け、そこでファンとの交流はしていましたし。
 そうそう、僕がコスモスコンピューターを辞める前くらいに、その掲示板に集まった人たちとオフ会を開いたんですよ。そのときに、「その掲示板で知り合った人どうしが結婚する」という話を聞いたんです。しかもその後、結婚したご夫婦からお手紙で「生まれた娘に、『RISE』の登場キャラと同じ「ななこ」という名前を付けました」と報告をいただいたんです。

 それは僕にとって衝撃でした。昔から思っていた「人とコミュニケーションをとる」こと、それから「人の人生を変えるコンテンツを作る」ことにほかならない。
 「それってできるんだ。それはこういうことなんだな」と、自分がやっていることが正しいんだと確信を感じられた瞬間でした。「その子が大きくなったときに名前の由来を聞いて、どんなことを感じるか」。そう考えたら、「僕はもう変なものは作ってはいけない。その子が誇らしくなるような仕事をしていかなければいけない」と思ったんです。

──いいエピソードですね。

tororo:
 でしょう? それからサーカスとして1本目の『Aries』発売日に秋葉原でイベントを催したとき、ブランドデビューのイベントなのにたくさんの人に足を運んでもらえたんです。
 そういう経験があったから、『D.C.~ダ・カーポ~』のときは、全国のできるだけ多くのショップでイベントを開きたかったんです。

──それが全国巡業という形になったわけですね。

tororo:
 ええ。それともうひとつ、当時から僕の中で、「PCゲームを遊んでもらうことって、やはりハードルが高いものだ」という考えがあったのが巡業の理由になっています。
 PCゲームは価格も高いし、インストールに時間もかかるし、ゲームそのもののプレイ時間も長い。だから本当は、そういうイベントで作品世界を体験してもらいたかったんですよ。理想としては、教室を再現し、制服を着たコスプレイヤーがいて、一緒に机を並べて……というようなもの。
 ですが、さすがにそれは無理な規模だったので、実際にはコスプレイヤーを連れてクイズ大会やゲーム大会をやるような企画に落ち着いたんですけどね。

──ですが、そうした販促がヒットにつながったとも言えそうですね。

tororo:
 DVD-ROM版とCD-ROM版を合わせて、初期ロットで3万本出荷していますから、当時としても悪くない数字だったと思います。すでにコンシューマー化の話も出ていました。ここで成功できたのはよかったですね。

■アニメ化によって美少女アニメ市場の構造を理解した

──アニメ化が決まったのは、そのあとなんでしょうか?

tororo:
 そうですね。でもきっかけは発売前にありました。アージュの吉宗鋼紀さんにランティスさんを紹介していただいたんです。そこで『D.C.~ダ・カーポ~』のお話をしたら、発売の数ヵ月前なのに「音楽を全部やらせてほしい」って言っていただきまして(笑)。

 当時、ランティスさんは美少女ゲームにはほとんど関わっていませんでしたが、可能性を感じてもらえたんでしょうね。そのままお願いすることになり、そこからアニメ化へとつながっていくんです。
 そういう意味では、吉宗さんが僕とランティスさんを繋いでくれたことが、『D.C.~ダ・カーポ~』という作品の大きな転機になったと言えるでしょうね。

──そして翌平成15(2003)年の7月から12月まで、テレビアニメ『D.C.~ダ・カーポ~』が放送されます。

tororo:
 このとき僕は、「美少女アニメには、いわゆる美少女ゲーム系のファンと、学園もの作品のファン、そして少女漫画ファンが集まってくるんだな」とその構造を理解したんです。男性向けや女性向けという区分けではない。

 『D.C.~ダ・カーポ~』は、その3つのファン層を集めることができたんです。当時ブロッコリーの代表だった木谷高明さんに、「『シスター・プリンセス』のファンが『D.C.~ダ・カーポ~』に民族大移動している」って言われたのを、いまだに覚えていますね。

──そうしてアニメが成功したことで、『D.C.~ダ・カーポ~』は大きくブレイクし、業界にも大きな影響を及ぼすことになります。若いクリエイターや声優などに話を聞くと、アニメ『D.C.~ダ・カーポ~』で美少女ものに目覚めたという人もとても多いんですよ。

tororo:
 『同級生』や『To Heart』もアニメ化されたとき、当時は「すごいな」と感じていたんですが、その一方で「メジャーのアニメレーベルではないんだな」と思っていたのも事実です。
 そういう作品がアニメ化された時期を経てこそですが、『D.C.~ダ・カーポ~』など平成10年代半ばの作品が、メジャー会社のアニメの原作になるという扉を開いていったと思っています。

──確かにそう言う側面もある一方で、声優のキャスティングなどが原作とは違ってしまうことが批判されたりもしましたよね。

tororo:
 それについては、当時の僕がアニメの声優を詳しく知らなかったからというのもあります。それと、やはりアニメ化ともなると関わっている会社も多くなり、原作側だけの主張を通すことが難しかったという理由もありました。

──大人の事情ですね。

tororo:
 そうですね(笑)。

──『D.C.~ダ・カーポ~』、そしてのちの『D.C.II~ダ・カーポII~』をアニメ化する際にどういうことを意識したのでしょう?

tororo:
 アニメは視点が客観的なので、やはり「ドラマに寄せて表現していこう」と思いました。
 もちろんゲームとは違うメディアなので、そこで意識した部分もありますよ。たとえばアニメはゲームのように分岐ができないので、「メインに据えるのはどのヒロインのルートにするのか?」、「満遍なくヒロインを出せるのか?」など、そういう部分はかなり考えましたし、話し合いました。

──その結果、『D.C.~ダ・カーポ~』、『D.C.II~ダ・カーポII~』はともにアニメもヒットし、それまで本作を知らなかったファンを多く巻き込みました。この成功は、何が大きかったとお考えですか?

tororo:
 タイミングと人と人の巡り合わせですね。後はそれが歴史に刻まれるように必死にアニメに関わったスタッフ皆が一所懸命にやったということだと思います。それもある種の「青春」なのかなと。

■成長するヒロインを見せたくて、ファンディスクを出し続けた

──話をPCゲームに戻しますと、『D.C.~ダ・カーポ~』を盛り上げるアプローチとして、積極的なファンディスク展開が始まります。本編発売からわずか半年後に、第1弾として『D.C. White Season ~ダ・カーポ ホワイトシーズン~』が発売されました。
 その後も平成16(2004)年に『D.C. Summer Vacation ~ダ・カーポ サマーバケーション~』、平成17(2005)年には『D.C. Four Seasons ~ダ・カーポ~ フォーシーズンズ』と、ファンディスクをリリースされています。当時、美少女ゲームのファンディスクはほかにもありましたが、ここまで本数を出すような積極的な展開は珍しかったと思います。これにはどういう理由があったのでしょう?

tororo:
 ゲームを作るとき、いちばん時間がかかるのが「世界を創ること」なんです。「せっかく創った世界だから、また利用したいな」という思いがまずありました。それと、当時とても印象に残っていたのが『とらいあんぐるハート』(JANIS)で、この作品はファンディスクがとても売れていました。しかも後にはファンディスクから『魔法少女リリカルなのは』という大ヒットコンテンツまで生み出してしまうわけです。この展開を見て、「アナザーストーリー集は出していかなくては」と自然に思っていたのはあります。

 それからこれは現在のソーシャルゲームと同じ考えかたなんですが、コンテンツに対するユーザーの接触頻度を高めたかったんですね。できる限り広告も打ち続けたいし、店頭に置き続けたい。
 それを考えたときに、アナザーストーリー集を継続的に発売するという方法を採ったんです。

──当時は「やりすぎ」というような声が挙がることもありましたが、結果としてファンがより深く『D.C.~ダ・カーポ~』という作品を楽しむようになりましたよね。

tororo:
 ありがたいと思っています。これも時代性だったのかもしれませんが、この時期はファンが「キャラがかわいい」、「エロい」という単純な部分だけでなく、そのキャラが紡ぐ物語やキャラクター性の深まりとサーカスがどこまで成長するのかを、とても楽しみにしてくれていたというのはありますよね。それが『D.C.~ダ・カーポ~』という作品をここまでにしてくれたのかもしれません。

──それにしてもたくさんのコンテンツがリリースされました。

tororo:
 先ほども言いましたが、リリースすることによってお客さんは「買う」か「買わない」かという選択肢を持てます。でも出し続けないと、その選択肢すら生まれない。「ならば出し続けなければいけないよね」というのが最初なんです。

 僕たちは「ヒロインが実際にいる」という前提で、彼女たちの物語を紡ぎ続ける。そうすることで、ヒロインは生き続けるだけじゃなくて成長していくんですよね。
 それを見たいかどうかは、お客さんに決めてもらえばいいんだけど、どうせなら見てほしいじゃないですか。なんならお客さんを集め、その場で物語を書いて見せたいくらいのスピード感で出したかったんです。もちろんそれは無理なので(笑)、ゲームだけじゃなく、マンガやアニメなど、さまざまなメディアで『D.C.~ダ・カーポ~』を提供し続けていたんです。

■大ヒットの続編『D.C.II~ダ・カーポII~』の一方で、実感し始めた市場の悪化とセールスの限界点

──そして4年後の平成18(2006)年に『D.C.II~ダ・カーポII~』が発売されました。この年はある意味で美少女ゲーム市場のピークと言える時期ですが、現場ではピークという感触を持たれていたんですか?

tororo:
 正直、限界を感じていました。PCゲームという場では、どんなに頑張っても100万本というセールスが無理なのは見えていた。だから「いまやっていることを後継者に受け渡し、次の何かを探さなければいけない」と焦っていましたね。
 たぶん僕は、つねに新しいことをやりたい人間なんです。もちろんいまになれば継続する大事さもより理解していますが、そのころは、『D.C.~ダ・カーポ~』を続けることに、言葉は悪いですが「飽きて」いて。それで現状を打破するために雨野智晴にディレクターを任せたんです。

──なるほど。とはいえ『D.C.II~ダ・カーポII~』も大枠はtororo団長が作られたんですよね?

tororo:
 そうですね。最初に決めたのは、前作のヒロインの孫世代が活躍する作品にしようということでした。子どもの世代だと、前作の登場キャラが親──つまりおじちゃん、おばちゃんとして出てきてしまうから、作品世界に没入しにくいと思ったんです。でも、「おじいちゃん、おばあちゃんなら許されるかな」と。その世代なら、出さないこともできますしね。

──なるほど、そういうことだったんですね。

tororo:
 僕の好きな歌に、谷山浩子さんの『恋するニワトリ』というものがあるんですが、風見鶏に恋したニワトリが、ひとりで卵を産む歌詞なんですね。物語としては、それがとても頭に残っていたんです。
 『D.C.~ダ・カーポ~』で純一と音夢がくっついてハッピーエンドを迎えたんだけど、やっぱりさくらはそんな世界は嫌なんです。それで自分の命を削ってまで魔法で、義之という自分と純一の子どもを生むのですが、やっぱりどうにもならないわけですよ。それでさくらは自分の魔力が尽きて死んでしまう前に、純一に義之を預ける……という話を考えたんです。

 詳しくはゲームを遊んでほしいんですけど(笑)、そうして生まれた歪んだ世界線を、ヒロインたちの愛の力で正常に戻すわけです。そこまでプレイしたときに、「もう一度さくらさんの最初のころのセリフを聞いたらどう感じるか」、「主題歌を聴いたらどう感じるか」というのが『D.C.II~ダ・カーポII~』でやりたかったことのひとつなんですね。

──飽きたと言っているわりには、いろいろ考えているじゃないですか(笑)。

tororo:
 まあ、そうなんですけどね(笑)。
 それともうひとつ、「キャラクターの横の繋がりをしっかり作ろう」と心がけました。これはディレクターの雨野智晴がいちばんこだわったところです。そういう部分が、前作のヒットでお金もあったので、きっちりやり切れたというのが『D.C.II~ダ・カーポII~』ですね。

──スタッフは本当にいい作品を作っていたと思います。そのスタッフたちの姿を見て、tororo団長はどのように思われていたんでしょう?

tororo:
 僕としては『D.C.II~ダ・カーポII~』は任せてしまったんだけど、そうやって一所懸命作っているのを見たら、「こりゃ、売らなきゃいかん!」という気持ちになりますよ。ですので「いかに売るか」を考えるようになりました。そういう意味では99%プロデューサーとして作品に向き合うようになったのは、この『D.C.II~ダ・カーポII~』からですね。

──たとえば『D.C.II~ダ・カーポII~』では、メインヒロイン3人に新人声優を抜擢しました。作品作りだけでなく、人作りのような部分を意識されたりもしたんですか?

tororo:
 どうなのかなあ。ただ、自分の中では、サーカスの一本目から「有名なクリエイターを使って作品を作る」という意識はまったくなく、作品ごとに若い力を結集して、それでも勝ち続けるようなやりかたを考えていたんです。その意味で『D.C.II~ダ・カーポII~』は最初からアニメ化まで見えていたので、新人声優をそこまで成長させようという思いもありました。
 結果がどうなったかは、皆さんご存知だと思いますが……自分の思いだけでは難しい部分はありましたね。

──とはいえ、あの3人は発売前の全国イベントに同行するなど、さまざまな形で活躍されました。

tororo:
 その部分は考えていましたね。『D.C.II~ダ・カーポII~』では最初から全国巡業や発売前イベント、Webラジオなどに声優を起用するつもりでしたから、制限のある既存の声優ではなく、いろいろやってくれる新人を起用し、ファンも巻き込んで一緒に盛り上げていきたいというのはありました。

──『D.C.II~ダ・カーポII~』は、その後6年にわたり、さまざまな展開でファンを盛り上げていきます。しかしその時期は、美少女ゲーム市場が下り坂になっていく時期と一致しています。『D.C.~ダ・カーポ~』関連でも、そうした影響は感じられましたか?

tororo:
 たとえばアニメのDVDの売り上げなどはから、「やはり落ちてきているな」という実感はありました。リーマンショックが平成20(2008)年にあり、『D.C.II~ダ・カーポII~』への影響はそこまで大きくありませんでしたが、それ以外のサーカス作品の売り上げを見ていると、「やはり落ちているな」と。

──リーマンショックは、サーカスにまでも陰を落としていたんですね。

tororo:
 逆に言えば、そのまま『D.C.~ダ・カーポ~』を作り続けていればお客さんとの循環を続けられたと思うんです。
 でも、僕が市場の流れに焦ってしまい、「これからはオンラインの時代だ」と、ドワンゴさんと一緒に作ったメタバースの『ai sp@ce』に『D.C.II~ダ・カーポII~』のメインスタッフをつぎ込んでしまったんですね。
 結果としてこの判断が状況を悪くしてしまったのかもしれません。ブレずに『D.C.~ダ・カーポ~』シリーズの制作は続けるべきでした。

──危機感を、過剰に感じてしまったと。

tororo:
 じわじわと追い込まれているような焦りを感じていたことと、やっぱり『D.C.II~ダ・カーポII~』で僕がパッケージソフトというものに飽きを感じていたというのも影響したんだと思います。
 プロデューサー募集などをしたのですが、そう簡単には人材は見つかりませんよね。敏腕社長が引っ張る大企業だって、後継者問題に悩んでいるところは多いですから。

──tororo団長が考える美少女ゲームのプロデューサーとはどんなものなのでしょう?

tororo:
 言葉にするのは難しいんですが……僕のスタイルで言えば、「どうやってコンテンツの価値を上げるか」を考える人だと思います。価値を上げるためには、「供給を減らす」方法と「需要を増やして拡大する」方法がありますが、僕の基本的な考えかたとしては「拡大しながら、価値を上げる」というところになるんだと思います。

──それはかなり難しいお仕事ですよね。

tororo:
 とくに難しいのは、「僕は新しいことをやりたいけれど、お客さんは安定感を求める」というところなんですよ。
 実際に『D.C.~ダ・カーポ~』以外のコンテンツもいろいろと作ってはみましたが、やはり同じようなものが人気になるわけです。だから「『D.C.~ダ・カーポ~』というコンテンツを広げたい」という自分と、「新しいことをしたい」という自分が乖離してしまっていたのかもしれません。

──その乖離を整合させることはなかなか難しいそうです。

tororo:
 そこに「とことん金儲けをする」みたいな目標があれば溝は埋まるんでしょうけど、僕の場合はそこまででもなかったんですよね。だから新しいことにチャレンジしたくなる。

 でも、たとえば喫茶店でいちばん大事なのはおいしいコーヒーなんですよ。突飛なメニューを用意して、一時的にお客さんが増えても、最終的に評価されるのはおいしいコーヒーを出し続けているかどうか。いまなら理解できる理屈なんですけど、当時は若く、そういうことが解っているようで解っていなかったんです。

──とはいえ、『D.C.~ダ・カーポ~』や『D.C.II~ダ・カーポII~』は、大きなヒットとなった作品であることに間違いありません。この2作の発売が、美少女ゲーム業界、一般アニメやゲーム業界に与えた影響は少なくないと思います。

tororo:
 「埼玉の僻地で、まったくお金がないところから数年でアニメになるようなものが出来る!」 そんな夢を後輩のクリエイターに示せたのかなと思います。そこからはインターネットの時代になり、よりその流れは加速していることでしょう。

 ただ、ネガティブな影響を与えてしまったとも感じています。というのも、『D.C.~ダ・カーポ~』のフォーマットはわりと真似やすいものだったので、その後の美少女ゲーム市場で「学園ものならなんでもいける!」というような風潮を作ってしまった印象があるんですよね。
 それを感じたときに、「これはよくないな」と。「この流れが強くなりすぎると、結果的に自分たちの首を絞めるんじゃないかな」と感じていました。

■やりきれなかった『D.C.III~ダ・カーポIII~』──シリーズ展開にいまも感じる後悔とは……

──そして平成24(2012)年に『D.C.III~ダ・カーポIII~』が発売になります。この作品が、tororo団長のシリーズ最後のプロデュース作品となるわけですね。

tororo:
 じつはその前に、一度「プロデューサー引退宣言」をしているんですが、やはり「この作品まではやらなきゃダメだろう」ということで、引退を撤回するんです。宮崎駿さんみたいですね(笑)。

──確かに(笑)。tororo団長にとってそれだけ『D.C.III~ダ・カーポIII~』に思い入れがあったわけですよね?

tororo:
 『D.C.III~ダ・カーポIII~』には、「これまでのシリーズを大団円に持っていく」というテーマがあったんですが、そこをやり切れたかというと、やり切れていない思いがあるんですよね。「プロデューサーとして、これまでにやったことのないことをやろう。売り上げは落ちるけど挑戦してみよう」と、この作品は一般作としてリリースします。そこが僕にとってのモチベーションになってはいたんです。

 ただ、このとき現場は、『D.C.ZERO~ダ・カーポZERO~』という企画を進めたかったんですよね。それをプロデューサーの意向で『D.C.III~ダ・カーポIII~』にしてしまった。
 そういう部分で、ディレクターの雨野智晴にストレスを与えてしまったのかもしれません。彼からすれば「『D.C.III~ダ・カーポIII~』は違うディレクターでやるって言っていたじゃないか」という思いもあっただろうし。

──新しいスタッフで作るという約束があったんですね。

tororo:
 そうです。ただ、『D.C.III~ダ・カーポIII~』を一般作にすると決めた段階で、「売り上げを考えれば新しい人に任せるのが難しい」という判断を、プロデューサーの都合でしてしまったわけです。
 もちろん雨野智晴に一般作の『D.C.~ダ・カーポ~』を作る経験をさせたかったというのもありましたが、彼としてもいちばん作りたいものが作れなくなってしまったわけで……。

──後悔していますか?

tororo:
 いま思えばですが、『ai sp@ce』に彼らを投入せず、『D.C.ZERO~ダ・カーポZERO~』を「作らせてあげればよかったかな」と。そうすることで、『D.C.III~ダ・カーポIII~』も想定していたものになったのではないかと思うんですけどね。

──別の形をした『D.C.III~ダ・カーポIII~』の構想があったんですね。

tororo:
 いまでも第5弾くらいまでの構想はあります。現状PCゲームを作る状況にないので作りませんが。

──『D.C.~ダ・カーポ~』が平成14(2002)年です。『D.C.II~ダ・カーポII~』が平成18(2006)年。
 つまりあいだに4年ありますが、これと同じスパンで平成22(2010)年に『D.C.ZERO~ダ・カーポZERO~』を出し、平成26(2014)年に『D.C.III~ダ・カーポIII~』を出すような流れもあったのかもしれませんね……。

tororo:
 セールスがどうなるか判りませんが、そうであれば「もう少しみんな幸せに作品作りに取り組めたのかなあ……」と思います。いま思えば、自分の未熟さですね……。

──ひとつひとつの選択は、そのときに最善と思って選んでいるわけですから、選んだ道でなければ、またいまに続く形にはならなかったわけで。ただ、冒頭にお話をされていましたが、人気の高い美少女コンテンツから「生身の感覚」が希薄になっていくのは、時代の趨勢なんでしょうね。

■変わりゆくアダルトソフト──ファン目線で見られる『D.C.4~ダ・カーポ4~』への期待

──そんな中で、令和の美少女ゲーム業界やそれに関わる人はどうなるんでしょうね。

tororo:
 僕自身は、小賢しくなりたくはないというか、やっぱりバカでありたい。年齢を重ねると人生の着地点を考えたりもするんですが、せっかく僕は『D.C.~ダ・カーポ~』を作って来たんだから、ちゃんと咲いてちゃんと散る桜の花のように、そういうバカでありたいと思います。

 業界全体を見ると、たぶん向こう5年や10年は、もっとコンテンツの価値が下がっていくと思います。生み出されたものがネット上で共有されることで、ほぼタダのようになっていく。
 そうなると「コンテンツ」ではなく、「体験」にお金を払うようになるわけで、3Dとバーチャルによるエロが先鋭化していくでしょうね。つまりよりリアルな欲求を満たす方向に進むのではないでしょうか。

──具体的にはどういうことでしょう。

tororo:
 これまで美少女ゲームは、二次元の美少女がいて、そこに物語があり、そしてエロがあった。でも、その物語とエロが分離し、オタク趣味は物語とキャラ性で充足され、エロはバーチャル風俗のようなものになるのかなと思うんです。
 たとえばいまのアイドルのファンって、かわいい女の子が頑張っている物語を愛でているわけですよね。もちろん裏ではエッチな気持ちもあるんでしょうけど、そこはそれほどダイレクトには繋がっていないわけです。

──その結果、切り離されたエロの部分が、よりリアルな欲求を満たすものになっていくというわけですね。

tororo:
 だから今後エロがデジタルで生き残るとすれば、3Dしかないわけです。2Dはどちらかと言えば、アートとして生き残るようになる。「そういう時代になるかな」と思っています。

──令和の今後、tororo団長は美少女ゲームに関わる予定はあるのでしょうか? そして……もう一度『D.C.~ダ・カーポ~』を作ること可能性はあるのでしょうか?

tororo:
 じつはこの度、『マブラヴ』の統括プロデューサーに就任しまして!ですので、そこから新しくいろいろ仕掛けていこうとは考えていますね。10月22日に発表したのでアーカイヴでも見てください!

 『D.C.~ダ・カーポ~』については判りませんが、今度『D.C.4~ダ・カーポ4~』が発売されますよね。この作品には主題歌でしか関わっていないので、初めてファンに近い目線で楽しむことができるんです。そうしたら、もしかすると「作りたい」という気持ちになるのかもしれません。

 たとえば『D.C.~ダ・カーポ~』は、僕の思いを込めて作りました。それは「恋8:愛2」というような割合だったわけで、いまの僕にはそういう作品は作れません。
 でも、いまは結婚して子どもも生まれ、「愛8:恋2」のような作品を作れるようになったようにも思えるんです。機会があれば、そういう作品を作りたいと思いますし、それが僕にとっての新しい『D.C.~ダ・カーポ~』になるのかもしれません。(了)

 平成14(2002)年にシリーズがスタートした『D.C.~ダ・カーポ~』は、tororo団長の、「美少女ゲームをもっと外に広げ、たくさんの人に認めてもらいたい」という想いのままに、平成の後半を貫いて人気を獲得し続けるほど、多くのファンに愛される息の長い作品となった。

 その人気の理由は、作品の質はもちろんだが、全国を巡るプロモーションのツアーだったり、ファンとの交流会だったり、あるいはライブイベントだったりなど、tororo団長のプロデューサーとしての手腕によるところも大きい。
 またその一方で、取材が進むにつれ、作品からも滲み出るtororo団長の「自分の気持ちへの素直さ、誠実さ」にもあるのかもしれないと感じた。

 『D.C.III~ダ・カーポIII~』をもって、シリーズからは離れることになったtororo団長だが、つぎは『マブラヴ』の統括プロデューサーに就任するとのこと。過去にtororo団長によって発案され、その後の美少女ゲームのプロモーションでは定番となった仕掛けも多い。
 『マブラヴ』でも、多くのファンに長く愛される仕掛けを見せてくれることだろう。

 ただ、tororo団長の言葉の端々に、消えない『D.C.~ダ・カーポ~』への情熱を感じたのも事実。そう実感できるインタビューだからこそ、tororo団長が作り出す今後の作品から目が離せない。

電ファミニコゲーマー:今俊郎