デビュー前極端に少なかった露出 前代未聞の仕掛けも失敗…初登場は50位にも入らない“大惨敗” 中森明菜の軌跡と奇跡

引用元:夕刊フジ
デビュー前極端に少なかった露出 前代未聞の仕掛けも失敗…初登場は50位にも入らない“大惨敗” 中森明菜の軌跡と奇跡

 【歌姫伝説 中森明菜の軌跡と奇跡】

 今でこそ「花の82年組」の1人として圧倒的な実績と人気を誇る中森明菜だが、そのデビューは決して華々しいものではなかった。

【写真】頭を丸めた明菜「歌姫2」のジャケット

 確かに、ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)としては1億円という破格な宣伝費をかけ、さらにデビュー発表会も東京・練馬区の「としまえん」で行ったものの、現実は「業界の反応は鈍かった」(当時を知る週刊誌記者)。

 実際、「(明菜の所属事務所の)研音も当時はプロダクションとしての認知度は低く、正直言って相手にするところはなかった」という。

 デビュー前にブッキングされたテレビ番組を見ても分かる。何と日本テレビ『スター誕生!』(当時はデビュー前ということで毎週出演していた)、そしてテレビ東京で日曜夜7時から放送していたアイドル番組『ヤンヤン歌うスタジオ』の2本だけだったのだ。

 当時、ワーナーでレコード店を担当していた都内のエリア営業担当者は「テレビの音楽番組が多かった中、明菜の露出が極端に少なかったのは確か。ですから楽曲への認知度も低かったと思います。しかも小泉今日子さんや堀ちえみさん、早見優さん、さらには石川秀美さんら女性アイドルが目立っていた分、どうしても明菜は沈みがちでした。いずれにしても、ワーナーでは初の本格的アイドルということもあったかもしれませんが販促展開も鈍く、レコード店での店頭プロモーションも弱さが目立ちました」と振り返る。

 明菜が「82年組」では6、7番手だったことが分かる。ワーナーで明菜のプロモーションを統括していた寺林晁氏は現場の苦しい状況を把握したうえでデビュー曲の発売に合わせ前代未聞の仕掛けを考えていた。音楽ヒットチャート情報誌「オリジナルコンフィデンス」のランキングページを除く全ページを丸ごと買い取ろうとしたのだ。

 「発売日の週の号を丸ごと買いたいと言ったんです。すると表紙とその裏ページ、それに終面の表裏の4ページは別の広告が決まっているから勘弁してくれと言われたので、カバーページを除いて丸ごと買いますと。とにかく僕としては明菜の存在をまず業界内にアピールしたかった。そのために最もインパクトのある方法を考えた結果がこの方法だったわけです」

 明菜の宣伝を担当していた富岡信夫氏は振り返る。

 「話を聞かされたときは正直言って驚いたというか、言葉も出ませんでした。30ページぐらいあったと思います。結局、広告も織り交ぜながら明菜のデビューまでのヒストリーからレコーディング、海外ロケの様子までリポートし、営業所をキャンペーンで回ったことや社員やスタッフの紹介までも入れました。とにかく、明菜のすべてをまとめた小冊子を挟んだという感じだったので、その後はプロモーション用として利用しました」

 だが、この宣伝戦略は業界内には大きなインパクトを与えたが「結果的には逆効果だった」と寺林は明かす。「他のレコード会社からはルール違反だとかモロに批判を受けました。しかもチャートの買収工作だと疑われるのはまずいとまで言われて…。逆に明菜に関してはチャートの算出が厳しくなってしまったかもしれません」

 そして出た結果が初登場58位(82年5月10日付)。

 「研音から思いっきり怒鳴られましたよ。何やっているんだって。あのときは参ったね。そもそも新人アイドルの中で初登場が50位に入らなかったのは明菜だけだったんじゃないかな」(寺林氏)

 宣伝戦略としては評価が分かれるところだが、一方で「明菜への業界内での注目度は一気にアップした」(富岡氏)のは言うまでもなかった。 (芸能ジャーナリスト・渡邉裕二)

 ■中森明菜(なかもり・あきな) 1965年7月13日生まれ、54歳。東京都出身。81年、日本テレビ系のオーディション番組「スター誕生!」で合格し、82年5月1日、シングル「スローモーション」でデビュー。「少女A」「禁区」「北ウイング」「飾りじゃないのよ涙は」「DESIRE-情熱-」などヒット曲多数。

 NHK紅白歌合戦には8回出場。85、86年には2年連続で日本レコード大賞を受賞している。