串田アキラ、歌手人生50年を振り返る「挫折するのは好きな気持ちが足りないってこと」【インタビュー】

金髪に黒いレザーの衣装がトレードマーク。ヒーローソングとアニメソングのレジェンド・串田アキラさん。1969年にレコードデビューし、今年でなんと歌手生活50周年を迎えた。

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『宇宙刑事ギャバン』『キン肉マン』『爆竜戦隊アバレンジャー』などのテーマソングで知られ、誰もが一度は聴いたことのある曲を数多く持つ串田さんだが、その生い立ちを知らない人はまだ多いかもしれない。

そこで、ベストアルバムのリリースやアニバーサリーライブ開催に沸くこのタイミングでインタビュー。デビューの経緯や思い出に残る出来事などを語ってもらった。

[取材・構成=松本まゆげ/取材・構成=小原聡太]

■音楽にのめり込んだ少年時代
――このたびは、50周年おめでとうございます。この機会に、デビュー前後のお話も伺えればと思っています。そもそも、デビューするかなり前から音楽が好きだったとか。

串田:ええ、中学生のころからですかね。
ジョニー・ディアフィールドの「悲しき少年兵」を買って聴いてみたり、ささきいさおさんのロカビリーに触れてみたりして、「いいな、こういうのを歌えるようになれたらな」とどんどん興味を引かれていきました。

あとは米軍のベースキャンプにもよく行っていましたね。そこでの影響も大きいと思います。周辺には外国人向けのクラブなんかもあったんですよ。

――そこに出入りを?

串田:はい。そういうクラブでは毎日夕方から朝まで4つのバンドが交代でステージに立っていたんですが、ずっと観ていました。
まあカッコいいんですよ。なんて楽しい場所なんだと思っていましたね。
中学生は行っちゃいけないとこだったんですけど(笑)、友だちの兄貴が演奏しているからって理由をつけて通っていました。

そうしてまずは、一番カッコいいと思ったドラムからはじめたんです。ドラム教室に通いはじめて、初日の帰り道にドラムセットを注文して。

――すごい行動力ですね。

串田:クラブみたいな楽しい場所にずっといるには、自分たちでバンドを組んで出演者になるのが一番手っ取り早かったんです。そうしたら自由に出入りできるじゃないですか。
メンバーも早々に揃ったので、勉強がてら演奏していました。当時は座間あたりに行っていたと思います。

――串田さんの地元の横浜市周辺は、アメリカの文化にも触れやすかったでしょうね。

串田:それにタイミングも良かったですね。本国からもいろんなバンドや歌手が来ていて、すごいなって影響を受けてばかりで。その頃には「将来音楽の世界に入りたい、絶対にプロになってやる」って思っていました。

――それ以前になりたかったものってあるんですか?

串田:いや、本当に何も考えていなかったです。音楽に出会う前は、オートバイが好きで、当時は14歳になると許可証を貰えて、それがあればスーパーカブに乗れたんです。

4月に14歳になっていた友だちはすぐにもらっていて乗っていたから、「僕も早く欲しい!」って思っていたんです。
だけど、僕が14歳になる誕生月(10月)からその制度がなくなって(笑)。

――すごいタイミングですね!

串田:そうそう(笑)。だから「ああそうか、バイクは駄目なんだ」って思ったんです。

――その反動で音楽の道に。

串田:そうですね。そのあとすぐ音楽にのめり込んでいきました。ドラムもすごく楽しかった。
だけど、ステージでは一番奥じゃないですか。目立たないんですよ! お客さんとしてみていた頃はドラムが目立って見えたんですけどね(笑)。

だから、だんだん前に出る方法を模索するようになりました。ギターを覚えたり、ドラムを叩きながら歌ったりしていましたね。

■ずっと変わらない“楽しむ心”
――それからはずっと音楽活動をされていたんですか?

串田:そうですね。米軍キャンプのナイトクラブだとかでライブをやっていました。
沖縄や広島、名古屋にもよく行っていましたね。沖縄はまだ返還されていない頃だったから、パスポートが必要だったのを覚えています。

広島では、1日3000人くらい入れ替わり入るディスコティック(ディスコのはしり)でよくやっていて、ベースキャンプから外国人の方がたくさん来ていました。
当時の僕はドラムを叩きながら歌っていたんですけど、テンプテーションズがカバーした「オールマン・リバー」(オリジナルはポール・ロブソン)を演奏したら、兵隊が前に集まってきて手を組んじゃって。

――すごい。感動していたんでしょうね。

串田:僕もすごいことだなって思いながらやっていました。そんなときに、当時の東芝EXPRESSの方が声をかけてくださったんです。

――それは……スカウトですね。

串田:ほかにもいろんなレコード会社の方が来ていたんですが、東芝の方がかなり熱心でした。
僕はライブが好きだからデビューとか興味なかったですし、したくなかったんですけど、それはもうかなり口説かれまして(笑)。ちょっとやってみようかなと思ったんです。

――そうしてデビューを。

串田:はい。まあでも、デビューしたらしたでいろいろありましたけど(笑)。

――いろいろ、というと?

串田:僕はもともと米軍キャンプとかで演奏していたので、何を勘違いしたのかレコード会社の人が「ブラックフィーリング」っていうキャッチフレーズで売ろうとしていたんです。

だけど、それでずーっとやっていたら“黒っぽい”じゃなくて“暗っぽい”フィーリングになっていったんですね。
当時の時代背景なんですけど反戦歌とかフォークソングとかでどうしても多くて。

それが僕耐えられないよっていうくらい。デビュー曲は「からっぽの青春」ってタイトルだったんですが、僕は楽しい青春を送ってきたからギャップがありすぎちゃって(苦笑)。

――自分のパーソナルや表現したいものとは、かけ離れたものを歌わなければいけなくなったんですね。

串田:そのあとも「生きる限界」っていう曲がきちゃったりして(笑)。
確かにリズム&ブルースも明るい曲ばかりじゃないんですよ。奴隷時代から歌っているわけだから。
でも、そんななかでも僕は明るい曲を楽しく演奏していたので、ドサッと重みがきたわけです。

――それまでずっと自由にやっていたのに。

串田:奪われた感じがしましたね。撮影では「笑わないように」といわれて、当時の写真で笑っているものはほぼないはずです。

――では、楽しくなってきたのはいつ頃なんですか?

串田:自分で割り切ろうと思ったときですかね。気持ちを切り替えるというか。

デビューしてからは「ステージ101」という音楽番組に出演していたんですが、それがすごくお硬い場所で、学校生活に逆戻りというか。
場違いだなという思いしかなかったです。とにかく合わなかった。俺の世界じゃないと。

だから3か月くらい経ったのときに「やめさせてください」って言ったんです。

――そこまで思いつめていたんですね。

串田:だけど、「もうちょっとがんばろうよ。契約とかもあるからさ」ってとめられて、覚悟を決めたら開き直れたんですよ。
やるからには気持ちを切り替えて楽しくやろうと。

番組にはゲストの方も来て歌ってくれたりしたんですけど、そういう気持ちでやってみたら楽しめました。
歴代の司会の関口宏さん、黒柳徹子さん、マイク眞木さん、前田美波里さんたちは、いろいろ話してくださいましたからね。

あとは作曲家の中村八大先生との出会いも大きかったです。破天荒な先生で、親近感があって楽しかったんですよ。
歌によっては振り付けの先生がいることもあったんですけど、「そんなことやっていても駄目だ。ドラムセットの横から飛び降りろ!」って言うんです。あ、この先生面白いって。

――活路を開いてくれた。

串田:はい。人生も音楽もいろいろ教えてくださいました。こういう先生だから「上を向いて歩こう」のような素晴らしい曲が生まれるんだなと思いました。
そういうきっかけがいろいろあって、気持ちがひっくり返って楽しくなっていきましたね。

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■ヒーローソングとの意外な出会い

――ともあれ、その後は『太陽戦隊サンバルカン』などのヒーローソングにも挑戦していきますが、こちらも苦労したそうですね。

串田:映画『マッドマックス』の「ROLLIN’ INTO THE NIGHT ~マッドマックスのテーマ~」を聴いた渡辺宙明先生が「サンバルカン」に推薦してくださいました。
確か、アルバム作っているときかな? 「今度こういう感じのお子様向けの曲があるんだけど」と言われて。軽い気持ちで引き受けたんですよ。

――初めて挑んだヒーローソングはいかがでしたか?

串田:全然うまくいかなかったんです。ワンコーラス歌っては「違うんだよね」の繰り返しで、どうすればよくなるのかも教えてくれないからわからない。
並行してバンド活動をしていて、メンバーを待たせるわけにもいかないので、もう1回歌って駄目だったら帰っちゃおうくらいの気持ちでした。

――どうやって克服したんですか?

串田:最後に譜面をしっかり見て歌ったら、「できるじゃん」ってOKだったんです。そのときはなんでOKだったのかわらかなかったんですけどね。

だけど、その次の『宇宙刑事ギャバン』のときはすんなりOKだったんですよ。最初は駄目だろうなって思っていたんですけど、スタジオに『?ギャバン』でヒーローとヒロインを務める大葉健二さんと叶和貴子さんが観に来てくださっていて、気合いが入ったんですよね。「えっ、もうOKですか?」っていうくらい。

――ほかにもなにか掴んでいたのかもしれないですね。

串田:そうだったんでしょうね。自然と掴めていたのかもしれない。今ならわかるんですが、ヒーローには見え見えの優しさじゃなくて、秘めた優しさもあるんですよ。それが歌に入っていたんだろうなと思います。

――具体的には、どんなふうに歌うんですか?

串田:大雑把に言えば、ちょっと引いてみるんです。するとそこに抑揚というか、問いかけるような表情が生まれるんですよね。『~サンバルカン』も、改めて聞くとああ、入っているなって思うんですよ。挿入歌も含めて。それから『宇宙刑事シャリバン』『宇宙刑事シャイダー』と続きます。

――すごいですよね。その後も『巨獣特捜ジャスピオン』が続きますし、毎年串田さんです。

串田:びっくりしましたね。『~ギャバン』が終わったら、「はい、次は赤いのね」と言われて『~シャリバン』を歌って、「次は青いのね」と言われて『~シャイダー』を歌うという。

――正直、売れっ子ですよね。

串田:これだけ続くとは思わなかったです。

――ちなみに、特撮ドラマに最初に触れたのはいつ頃ですか?

串田:それが『~サンバルカン』なんですよ。『~サンバルカン』の曲を歌うとなったとき、「『ゴレンジャー』ってわかる? あれが3人になったやつなんだけど」と言われたんですけど、『ゴレンジャー』がわかりませんでしたから。

それに、僕以外にどんな人がヒーローソングを歌っているのかもわからなかったです。コロムビアがやっている音楽イベントで共演することはあったんですけど、それ以上の付き合いが全然。バンドをやっていたのもあって、「串田は誘えない」っていう雰囲気になっていたんですよね。

――そのあたりは世間知らずだったというか。でも、誘われないのはちょっとさみしいですね。

串田:そうですね。「串田、今度の土曜だけど……あ、串田は駄目か」って言われて、何があるのかもわからなかったですから。

――とはいえ、それも忙しさゆえ。「売れたな」と思った時期っていつごろですか?

串田:それが全然わからないんですよね。今自分がどういう状況になっているかも全然わからず、スケジュールが合えばイベントに出演するという生活を送っていました。

――ただただ夢中。

串田:そうです。はじめてのヒーローショーは『~サンバルカン』のときで、としまえんだったんですけど、ああこういう感じなのかカッコいいなと純粋に思いながら観ていました。
当時の子どもたちはシャイで、司会のお姉さんが「集まれ~」って行っても全然来ないんですよ。遠巻きに見ているだけ。

だから、お姉さんに「マイク貸して!」って言って、僕が「コラなにやってんだ!」って子どもたちに言うんです。すると、「なんだよ!」って子どもも寄ってくるんですよね。で、ステージの前にいっぱいになって近い距離で接することができました。

ヒーローショーはそういうふれあいも楽しいですね。今は当時子どもだった人たちが大人になっているので、子どもと一緒に楽しむ環境ができあがっていて、昔みたいな苦労をすることはないですね(笑)。

■世界各地で音楽を届ける串田さん

――その後も、ヒーローショーはもちろん単独ライブ、海外でのライブなど様々な場所で歌っていますが、とくに忘れられないステージはありますか?

串田:やっぱり2002年のフランスですね。はじめての海外でのライブだったんですが、南フランスの田舎町に会場があって「こんなところに人が集まるのかな?」と思っていたんです。
そうして、ホテルに泊まって翌朝目が覚めたら、やたらと外がやかましいんですよ。なんだろうと思ったら、窓から見えるライブ会場にめちゃくちゃ人が居るんです。

――一夜でそんなに!

串田:フランスは地続きだから、国外からもいろんな人がキャンピングカーに乗ってきてくれるんですよね。そんな場所で歌ったんですけど、みんな一緒に歌ってくれるんですよ、日本語で。

それはもうびっくりしました。とくに『~ギャバン』と『キン肉マン』の盛り上がりがすごかったなあ。あとは、翌年行ったブラジルも思い出深いです。「来て欲しい」って一通のメールが届いて。

――それで行くことになったんですね。

串田:「ブラジルにも来て欲しい。『巨獣特捜ジャスピオン』が人気です。『世界忍者戦ジライヤ』も人気です」みたいなメールでした。「じゃあノーギャラでもいいから出演者(串田、影山ヒロノブ、渡洋史)のチケットだけよこして!」って返信したら、3人行くのにチケットがバラバラなんですよ(笑)。
そんな感じで結構いい加減だったんですけど、いざサンパウロに着いたらすごかったです。

飛行場にかなりの人がいて、その飛行機に乗っている誰かを待っているようだったんですよ。「サッカー選手でも乗っているのかな?」と思ったら、僕を見て「ダイレオン!(※)」って。俺じゃん!ってなりました(笑)。

※『巨獣特捜ジャスピオン』に登場する巨大母艦。串田さんはテーマソング「超惑星戦斗母艦ダイレオン」を歌っている。

――串田さんを待ち望んだファンが出迎えを。

串田:びっくりしましたね。だけど、明日ここでやりますっていう会場に連れて行ってもらったら、ステージがまだ組まれていないんですよ。聞いたら「今日のサッカーの試合が終わったらみんなで組みます」って(笑)。

――お国柄ですね(笑)。

串田:でも、それから本当に完成して無事ライブができました。何万人という人が大盛りあがりしてくれてそれはもうすごかったです。
ブラジル特有のサッカーノリというか。ジャージ脱いでステージに投げ込んできましたからね。

ブラジルには35時間くらいかけて行くので大変なんです。だから「もう来ないだろうな!」って思うんですけど、1年経ったら「そろそろ行きたいな」ってなる(笑)。

――それだけの光景は忘れられないでしょうね。

串田:最初に言ったのは2003年ですけど、結局あれから10回以上行っています。日本とはまた違う、あの場所でしか味わえないものがあるんですよね。

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■50年の歌手生活は「本当に幸せ」

――今年で歌手生活50周年の串田さん。デビュー当初はかなり苦労されたようですが、それ以降で挫折しかけたことってありますか?

串田:挫折ですか……。挫折ではないかもしれないんですが、僕はやっぱりリズム&ブルースが好きでそういう音楽をずっと追いかけていたので、テンプテーションズは特別な存在なんです。
デビューしてからも、いつか前座でいいからやりたいなと思っていたんですが、そんなテンプテーションズから「一緒にステージに立たない?」と言われたんですよ。

――それはすごい!

串田:六本木のナイトクラブに出演している時、どこか見た人がいるなって思ったらテンプテーションズのメンバーだったんです。で、「一緒にステージに?」って言われたんですよね。

だけどそれが明日だって言うんです。僕は次の日このクラブハウスのステージに立たないといけなかったんですよね。
だからそう伝えようとしたら、お店のオーナーが「明日は急遽休みにする」「休むからテンプテーションズのライブに出なさい」って。

――えっ!

串田:なので一緒に出ることができたんですよ。前座でもなく、一緒に。時期的には、ヒーローソングを歌いはじめたあたりのことですかね。テンプテーションズのファンがみんな「誰だこいつ」となっているんですけど、歌いだしたら「うわーー!」ってなりました。
その後も、有明のエムザっていうライブハウスに出ている時に近くのガゼル(クラブ&レストラン)にテンプテーションズが出演していて、休憩時間にマネージャーが迎えに来てまた共演することができました。そんな経験をしたので、自分のなかでは音楽生活頂点なんじゃないかって思ったんですよね。

――なるほど。挫折ではなくゴールテープを切ってしまった感覚。

串田:やりきった気持ちになりましたね。だけど、それからもいろんなところで演奏していたらなんだかんだ楽しいんですよ。しかもその直後に『~ジライヤ』『機動刑事ジバン』がきたので、ますます楽しくなってしまい今に至ります。

――では改めて、50年間音楽を続けられる秘訣を聞きたいです。

串田:やっぱり、好きだからやっているんですよ。何かあっても好きな気持ちを忘れなければいい。挫折してしまうのも、好きな気持ちが足りないんだって思いますね。
続けることで花開くかわからないんですけど、好きでいれば続けることはできると思います。

40周年の時、楽しくてしょうがないっていう気持ちがものすごく強くて、これ以上のことできないんじゃないかなと思っていたんですけど、はっと気づいたらもう50周年ですから。

――すごく幸せな歌手生活ですよね。

串田:ええ、本当に幸せです。全然「からっぽの青春」なんてないんですよ(笑)。

――今思ってもそうかもしれませんね(笑)。「より多くの人に自分の曲を聞いて欲しい」とはほぼすべてのミュージシャンが思うことだと思いますが、串田さんの曲の場合はどの世代の人も、大体聴いたことがあると思うんですよね。

串田:そうですね。『キン肉マン』『~ジバン』もそうですけど、『トリコ』『爆竜戦隊アバレンジャー』『仮面ライダーオーズ/OOO』と、どの時代にもいろんな曲をいただけて、何かしらアクションを起こせているのは大きいのかもしれないです。

本当にありがたい。感謝です。もういいかなって思う気持ちもね……全然ないんですけど(笑)。

――一瞬ヒヤッとしました(笑)。では、今回ベストアルバムもリリースされたことですし、「もっともっと日の目を浴びて欲しい!」といった収録曲があれば教えてください。

串田:「小川珈琲」のCMソング「Orangr County」は、放映エリアが関西なのでなかなか聴く機会がなかったんですよ。みなさんのなかにもそういう人は居ると思うのでぜひ聴いてほしいなと思います。

あと「ギャングラーズパラダイス」は、いつもヒーローを歌っていますけど、悪のほうの曲なんです。めずらしいですし、僕の声にあっている曲だなと思います。ほかにも、「KA・MI・TSU・KE」、「その名はガイキング ザ・グレート」なんかももっと聴いてもらいたいですね。

――第一線で活躍し続けている串田さんですが、ヒーローソング、アニメソング業界ですが、今後どうなってほしいですか?

串田:自分の勝手な意見ですけど、やっぱり楽しく作って欲しいです。作っている人が楽しくないと受け入れるほうも受け入れ難いと思いますからね。
今のこの業界の人たちって、楽しんでいる人が多いと思うんですよ。『?サンバルカン』や『キン肉マン』のとき子どもだった子たちが、今この業界でいいポジションに来ているのかなと。

「売れなければいけない」というのもあるんでしょうけど、それ以上に楽しまないと。自分のスタイルでいいから楽しく。それを極限まで工夫していけば、どんどん楽しくなると思います。無限大ですよ。

――楽しんでいる串田さんが言うからこそ説得力がありますね。最後に、今後挑戦したいことを教えてください。

串田:歌い方や楽器、なんでもそうですけど、とにかくいろいろやってみたいです。例えば、突然ハーモニカ吹いてみようかな、とかね(笑)。もういいやじゃなくて、毎日新しい気持ちで、もうちょっと欲を出して「今日は何をしよう」と常に思い描いていたいです。それをできる限りやっていく。

40周年は「夢中者(むちゅうもん)」という言葉を掲げて夢中でやっていましたけど、50周年は「毎日がスタート」。この言葉でやっていこうかなと思います。

アニメ!アニメ! 松本まゆげ